任那日本府 (Mimana Nihon-fu (Japanese government in Mimana))
任那日本府(みまなのにほんふ、やまとのみこともち)とは、古代、朝鮮半島南部の任那にあったとされる倭国の統治機関である。
その実態については諸説あり、議論が続いている。
概要
『日本書紀』をはじめ、中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す記事が存在すること、『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されていること、またいくつもの、日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で発見され始めたこと、そして新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)したこと等の史実より、倭国と深い関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、倭国に臣従した在地豪族など)が伽耶地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことはほぼ確実視されている。
ただし、倭国が当該地域に対して民政統治を行ったかどうかについては一定の見解がでていない。
なお、任那日本府の称は、国号の表記が日本と定まった後世に呼称されるようになったものであり、任那日本府が存在したとされる時代にあっては、倭府と称したとされる。
第二次大戦以前
第二次世界大戦以前の日本における伽耶地方の研究については、当時の併合政策を正当化しようとする姿勢から、『日本書紀』に現れる任那日本府を倭国(大和政権)が朝鮮半島南部を支配するために設置した出先機関であるとする前提に立つものであった。
考古学的な研究についても、研究そのものに朝鮮人の参画が認められていなかったこともあり、まず任那日本府の解釈に沿って日本府を合理的に説明しようとする姿勢から抜け切ることができなかった。
そのような解釈は明治期の那珂通世、菅政友らの研究から見られ、津田左右吉を経て戦後に末松保和『任那興亡史』において大成された。
この時代の認識では、任那日本府の淵源を『日本書紀』神功紀にある「屯倉」に求め、任那日本府は伽耶地方=任那地方を政治的軍事的に支配したとするものであった。
そのため三韓征伐のモデルとなった朝鮮半島への出兵を4世紀半ば(神功皇后49年(249年)を干支2巡繰り上げたものと見て369年と推定する)とし、以降、当地域は倭王の直轄地であったとした。
また、任那日本府は当初は臨時の軍事基地に過ぎなかったが、やがて常設の機関となったとみられていた。
その後、高句麗や新羅が百済北部を侵すようになると、百済は執事の功績を賞賛し、大和に援軍を求めた。
554年、百済が新羅に敗れて聖明王が殺され、562年には任那全土が新羅に奪われるに至り、日本府は滅亡したとされる。
戦後
前述のような学説は皇国史観の強い影響下に成ったものとする考えから、その反動として戦後の研究では、日本の出先機関が存在したことを否定しようとする姿勢が強かった。
更に1960年代頃から朝鮮半島で広がった民族主義の影響もあり、特に朝鮮半島の研究者により、記紀に記されているヤマト朝廷の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた。
1970年代以降
1970年代以降には洛東江流域の旧伽耶地域の発掘調査が飛躍的に進み、文献史料の少ない伽耶史を研究するための材料が豊富になってくるとともに、政治的欲求に基づく解釈から解放された議論が盛んとなった。
この時期の日本での代表的論考は井上秀雄『任那日本府と倭』である。
井上によると、任那日本府とは『日本書紀』が引用する『百済本紀』において見られる呼称であり、6世紀末の百済が高句麗・新羅に対抗するために倭国(ヤマト王権)を懐柔しようとして、『魏志』(『三国志 (歴史書)』)韓伝において朝鮮半島南部の諸国を表していた「倭」と、日本列島の倭人の政権とを結びつけて、ヤマト王権の勢力が早くから朝鮮半島南部に及んでいたかのような印象を与えるに過ぎない。
また、実際の『百済本紀』の記述では、任那日本府とヤマト王権とは直接的には何の関係も持たないことが読み取れるという(→井上2004 pp.106-107.)。
つまり倭とは伽耶の別名とするものである。
この説は、単なる伽耶地方の首長連合を後世に日本府と称したとするものであり架空説といわれる。
これに対して吉田晶は、日本府の実体を半島の先進的な文物を入手するため設置された会議で、倭から派遣された卿、任那数ヶ国の君主を意味する旱岐層、大伽耶の大首長、安羅、多羅の次旱岐など現地の王や豪族、官人層により構成されたとした。
なお、5世紀の倭王武が倭王と新羅・任那・加羅をはじめとする六ヶ国諸軍事の封号官職爵位を得ており、中華王朝から本拠のある日本列島の外部では君主としてではなく武官の地位のみ認められていたことから、日本府の役割を将軍府即ち軍事機関と捉えた坂元義種、山尾幸久等の説もある。
他に70年代から80年代の主な説に、倭国からの単なる使者とした説(請田正幸)、伽耶地方の首長連合による対倭国外交機関とする説(奥田尚)、百済による伽耶地方統治のための機関で倭系百済官人・倭系傭兵がいたとする説(金鉉球)などがある。
1990年代以降
1990年代になると伽耶研究の対象が従来の金官伽耶・任那加羅(いずれも金海地区)の倭との関係だけではなく、井上説を支持する田中俊明 (朝鮮史)の提唱になる大伽耶連盟の概念により、高霊地域の大伽耶を中心とする伽耶そのものの歴史研究に移行していった。
また、1990年代後半からは主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域の研究が推進される一方で、1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であるとして紹介されて以来相次いだ朝鮮半島南西部での前方後円墳の発見これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。
また朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は伽耶の勢力圏の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。
韓国報道などや新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉の原産地が糸魚川周辺に比定されている事などを踏まえ、一部地域への倭人の集住を認める論考が相次いで提出された。
吉田孝によると、「任那」とは、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合であり、いわゆる地名である伽耶地域とは必ずしも一致しない政治上の概念であり、任那が倭国の軍事力を勢力拡大に利用するために倭国に設置させた軍事を主とする外交機関を後世「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は倭人が移住した地域であったという。
また、532年の任那加羅(金官加羅)滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったとしている(→吉田1997 pp.74-78.)。
吉田は一時期否定された4世紀の日本府について金官加羅の主導性を認めつつ倭国の軍事的外交機関として認めており、他の研究者と一線を画している。
鬼頭清明は『加耶はなぜほろんだか』の中で、安羅の豪族が倭府と称し、伽耶地方や百済の政治決定に重要な関与をしていたことは認めたうえで、貢調徴取の機関でも直接支配の機関でもないとしている。
森公章によると、『日本書紀』を丁寧に読む限り言える点として、次のようなことが言えるとしている(森1998 pp.66-68.参照)。
確実な史料は、6世紀以降にしか登場しないこと
所在地は安羅であること
正式名は在安羅諸倭臣であること
倭中央豪族、吉備臣などの倭地方豪族、伽耶系により構成され、実務は伽耶系が担っていたこと
倭本国との繋がりに乏しいこと
伽耶諸国と対等の関係にあり、協同で外交交渉を進めていること
以上のように近年の任那日本府に関する言説は、倭人等の軍事的影響力や経済的利権の有無にではなく、その時期と組織の実体に移ってきている。
また韓国の考古学者の中にも、民族主義の影響を強く受けた従来の自国の研究者の学説を厳しく批判し、この時期の韓半島と日本列島の交流が極めて密接なものであったことを指摘する者が現れている。