伊賀氏の変 (Igashi no Hen (Incident of the Iga clan))
伊賀氏の変(いがしのへん)とは、鎌倉時代前期の貞応3年(1224年)6月から閏月7月にかけて起こった鎌倉幕府の政変事件のことである。
北条義時の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻伊賀の方が、伊賀の方の実子北条政村の執権就任と、娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した。
伊賀光宗は鎌倉御家人の中でも実力のあった三浦義村と結ぶ。
伊賀氏の不穏な動きを察した尼将軍北条政子は、義時の長男であった北条泰時を執権に就任させる。
また、三浦義村に対し、泰時への支持を確約させ、伊賀氏の政変を未然に防ぐことに成功した。
これにより伊賀の方・光宗・実雅は流罪となったが、彼らに担ぎ上げられそうになった当の政村は厳罰を免れ後に第7代執権に就任している。
異説
上記の通説は幕府の編纂書『吾妻鏡』貞応3年6月28日条に記された伊賀氏謀反の「風説」を事実と認定した上での説だ。
吾妻鏡の記事中では、鎌倉入りの前に事前調査させた泰時によって「謀反の噂は事実ではなく、騒ぎ立てるな」と伊賀氏謀反は否定されている。
この事件は、すでに将軍家と血縁もなく、北条本家との関係も希薄となって影響力の低下を恐れた政子が、牧氏事件と同じ構図を創り上げて義時後家として強い立場を持つ事になる伊賀氏を強引に潰そうとして仕掛けたものとする見方もある。
泰時は政子の画策には乗らずに事態を沈静化させ、政子によって処罰された伊賀光宗らも政子の死後すぐに幕府に復帰させている。