公営田 (Kueiden)
公営田(くえいでん)は、広義には、民間人が経営する私営田に対し、国家直営の田地を意味する日本史用語である。
が、特に平安時代前期(9世紀)に大宰府管内で導入された公営の田地制度を指す。
以下、後者の公営田について詳述する。
沿革
8世紀初年に本格的に始まった日本の律令制は、戸籍・計帳を元にして百姓・人民を把握した。
口分田を班給する代わりに租税を賦課するという支配体制をとっていた。
が、8世紀後期ごろから租税負担を回避するために逃亡・浮浪する百姓らが増加していくなど、律令制支配に行き詰まりが生じていた。
9世紀に入ってもそうした状況は改善されなかった。
823年(弘仁14)2月、参議兼大宰大弐の小野岑守(おののみねもり)は、公営田の導入を建議した。
当時、大宰府管内では不作が続いて税収不足に陥り、さらに疫病により百姓らの困窮が著しかった。
そうした中、岑守は財源獲得と窮民救済を目的として、期限付き(30か年限)で管内田地の一部を大宰府直営の公営田とし、そこからの収入をもって財源に充てることを提案したのである。
岑守の提案は採用され、4か年に限って大宰府管内9か国の口分田と乗田(口分田班給後に余った田地)総計約7万6千町のうち約1万3千町を公営田とすることが認められた。
公営田の耕作のため、年間6万人以上の百姓らが動員され、5人当たり1町の耕作が割り当てられた。
耕作百姓らの調・庸は免除された。
公営田の収穫の中から、中央へ納入すべき調・庸や耕作百姓への食料・報酬(佃功という)、溝池修理料などが支弁された。
その残余がすべて大宰府や国衙の収入となった。
大宰府管内の本来の正税額は約50万束であったが、公営田収入は100万束以上と本来額の2倍にのぼっている。
公営田制の主要な目的は、百姓らから直接、調・庸を徴収することを廃し、交易によって調・庸を調達することにあったと評価されている。
公営田の導入は、人別課税を基本とした律令制支配から土地課税を重視した支配への転換を示す最初期の例であった。
ただ、大宰府で試行された公営田制度はあくまで時限的なものであり、永続的なものではなかった。
9世紀中期(855年頃)には肥後で実施された記録が残っており、その後(879年ごろ)、上総でも公営田が施行されている。
これについては、公営田の施行が次第に拡がったとする見解と、公営田の施行は限定的だったとする見解がある。
879年(元慶3)には畿内諸国に官田平安期の畿内官田が置かれた。
これに公営田の経営方式が継承されている。
しかし、公営田制は、10世紀までに廃絶した。