勧農 (Kanno)
勧農(かんのう)とは、主として支配者が農業を振興・奨励するために実施する行為全般を指す日本史の用語。
元は中国古典に見られる『勧課農桑』という句が略されたもので、日本では律令において国司の職務とされたのが初見である。
秋の収納に対し、春の勧農ということもある。
発生
勧農は非常に広い概念を有する語であり、例えば、潅漑用水の整備・維持、種子・農料の貸与・給付(出挙もこれに含まれる)、耕地の配分、農業労働力の組織編成、荒廃地の開発、税率の上下調整などが含まれていた。
これらは、本来、農民による生産を促進・拡大を意図したものだったが、一方では、支配者にとって租税収入を確保するという側面もあった。
律令政府が722年に企画した良田百万町歩開墾計画も、勧農の一形態であり、農業生産を振興することにより、財政収入を増加・確保しようとしたものである。
律令制では、勧農は国司の職務として規定されており、国司による各種の勧農施策が行われた。
荘園制における勧農
平安時代中期ごろに律令制が崩壊し、荘園・国衙領を支配単位とする体制が確立していくと、勧農の内容も次第に変質していった。
特に荘園では年貢徴収を指して勧農と呼ぶ例も見られるようになった。
中世荘園における勧農は、大きく2つに区分される。
1つは荘園領主による勧農、もう1つは在地領主による勧農である。
荘園領主は、現地の有力農民(田堵など)を名主に任じ、荘園の現地経営を安定させると同時に、直属の預所を現地へ派遣するなどして、荘園支配の強化維持に努めた。
その中で、荘園領主による勧農は、百姓や名主も期待するところであり、例として年貢の減免や雑役人夫への給付などが行われた。
場合によっては、荘園領主が命じて名主や預所に勧農を行わせることもあった。
在地領主は、平安中期~後期を通じて、名田経営により富を蓄積し、周辺田地や開発墾田を集積するとともに、それらの田地内の一般百姓を支配下に置こうと指向していた。
そのため、潅漑用水を開発したり、自らの私営田を一般百姓に耕作させるなどの勧農行為をとおして、在地に対する支配力を強めていった。
こうした動きは、鎌倉時代になると一層顕著となり、鎌倉中期には荘園領主と在地領主との間で勧農権をめぐる相論(訴訟)が頻発するようになる。
ここに至り、勧農権は現地の実効支配を意味するようになった。
つまり、鎌倉期の地頭は、在地領主として勧農を実施することで、現地の実効支配権をも主張したのであり、このようにして地頭による荘園侵略が行われたのである。
江戸期の勧農
江戸時代になると社会が安定し、支配層となった武士は儒教精神に基づく穏健な支配、すなわち仁政を指向するようになった。
その中で、支配層は農民を育成するため、年貢による収奪だけでなく、様々な勧農施策を実施した。
特に1643年(寛永20)ごろに発生した大飢饉を契機として、大名や旗本らの領主層は、生産収入を確保するため、積極的に新田開発などの勧農を行った。
これにより、耕地が大幅に増加し、17世紀当初の約160万町歩が18世紀初めには約300万町歩にまで激増した。
江戸中期には、農村生活の疲弊が見られるようになったが、18世紀後期~19世紀前期(寛政期~文化文政期)ごろ、幕府は農村復興を大々的に進め、潅漑用水の整備や荒廃地の開発、そのための資金融資を実施するとともに、有能な者を代官に任命して長期間、同一職務にあたらせた。
これらの代官は諸々の勧農を積極的に遂行していき、各地で領民から名代官として顕彰され、現代まで顕彰碑や代官を祀る神社が大切に残されている。