升 (Sho (a unit of volume in the East Asian system of weights and measures))

升(しょう)は、尺貫法における体積(容積)の基準となる単位である。
10合(ごう)が1升、10升が1斗(と)となる。
その量は時代や地域により異なる。
日本では、メートル法採用後の1891年(明治24年)に、リットルを基準にして1升を1.8039リットルと定めた。
中華人民共和国では、1升=1リットルと定義し、また、SI単位としてのリットルにも「升」の字を宛てている。
一応区別のために、前者を市升、後者を公升と称するが、同じ値であることから単に升と呼ばれることが多い(市制 (単位系)も参照)。

升は元々は両手で掬った量に由来する身体尺であった。
当時の升は200ミリリットル程度、現在の升の10分の1程度であった。
それが時代とともに大きくなっていき、現在は元々の量の10倍程度になっている。

「升」という文字は柄杓の中に物を入れた形をかたどったものである。
そこから量を量る「枡」の意味、およびそれによって量られる容積の単位を意味するようになった(これとは別に、柄杓で物を掬い上げることから「のぼる」の意味もある)。
後に容器の方は「升」に木篇をつけて「枡」と書き分けるようになったが、実際にはあまり区別されていなかったようである。
上述のように、1升という量があってそれを量る枡が作られたのではなく、先に物を量る枡が定められ、その量が「升」と定められた。

日本における升の歴史

日本において「升」という単位は大宝律令にまず見られる。
古代中国における1升は現代の1合程度であったが、唐代には3合程度になり、日本に伝わるころには4合程度になっていた。
日本では、当時の唐の升を導入し、大升を約0.71リットル(新京升の約0.4倍)、その3分の1の小升を約0.24リットル(同0.1倍)としたとの説がある。

以上を含め奈良時代の升量については、江戸時代の学者によるものをはじめ各種の説があるが、いずれも律や令の記述と中国の度量衡制度からの推定に過ぎなかった。
しかし、澤田吾一は、奈良時代の穀倉の大きさから割り出し、当時の1石として2,800立方寸を得た。
当時使われていた尺度から現在の升量に換算すると、当時の1升は現升の0.4升に当たる(澤田吾一『奈良朝時代民政経済の数的研究』、復刻柏書房)。
現在、最も信憑性の高いと信じられている升量である。

律令制の崩壊につれ、各国、後に各地の荘園で勝手な升が使われるようになった。
後三条天皇は荘園整理を断行し、その一環として1072年、後に延久宣旨枡(せんじます)と呼ばれる公定の升を定めた。
この量についてもよく分かっていない。
文献的には現升の0.6270(『伊呂波字類抄』)、0.8223(『東盛義所領注文案裏書』)、0.4932(『潤背』)とする記録が残されている(寶月圭吾『中世量制史の研究』、昭和36年、吉川弘文館)。
寶月はこのうち『伊呂波字類抄』による0.6270を最も信憑性の高い数値としている。
縦横4寸、深さ2寸(32立方寸)の枡で、0.81リットル、新京枡の0.45倍の容積とするのは、鎌倉末期に成立した『潤背』によるものであり、これは本文で「寛治宣旨」となっており、延久年間に宣旨升が出されたことに明らかに反しており、信用できないとする。
ただ、古制を復古したはずだとする説によってこれを採用する研究者もいる(小泉袈裟勝『図解単位の歴史辞典』、柏書房)。
ただ、寶月による0.6270も尺度を中世に普遍的に使われた曲尺として計算しているが、『伊呂波字類抄』は遅くとも平安末期には成立していたので、律令尺は、曲尺の0.97に当たるので現升の0.5722升に当たるものと推定される。
平安時代末期から鎌倉時代末期ごろまで、京都から関東、九州まで宣旨升による文献が見いだされているが、どの程度普及したかは明かではない。

南北朝時代 (日本)以降は宣旨枡の検定がほとんど行われなくなり、各地でその地域だけで通用する升が作られた。
しかし、商業の活発化は、自ずと市場で共通する升を生み出すこととなった。
これが見世升とか町枡といわれる商業升であり、これは新京升よりやや小さく、古京升に近い量をもっていたと考えられる(寶月圭吾『前掲書』)。
奈良においては、興福寺が標準となる升を公定していたため、新京枡の0.8程度の升が市場で使われていた(『多聞院日記』)。
これは、奈良における状況を示したものであり、これを京都もしくは全国にまで広げるのは誤りである。

織田信長から豊臣秀吉へという全国統一の流れの中で、納める年貢の量に直結する「升」を量るための枡を全国共通のものにする必要が生じた。
織田信長は、当時使われていた十合升を公定して標準的取引升とした。
元亀二年に「判枡」(発行者の花押を書いた枡)を利用する記述が初めて現れ、これ以降「十合枡」の記述が急減していくことから信長による升の公定が裏付けられる。
天正14年10月、豊臣秀吉の代官中坊源五は、旧来奈良で使われていた升の使用を一切禁止し、新たな升の使用を義務づけた。
この新たな枡は、京都を中心に使われていた升であったことから京枡(きょうます)と呼ばれた。
後の新京枡と区別するために古京枡ともいう。
古京枡は縦横5寸、深さ2寸5分で、62.5立方寸、容積は1.74リットル、新京升の0.964倍であった。

1669年、江戸幕府は、江戸を中心に使われていた江戸枡(古京枡と同じ量)を廃止し、古京枡より少し大きい新京升の採用を命じた。
新京升は縦横4寸9分、深さ2寸7分、約1.8039リットルであった。
一説には、縦横が1分減り、深さが2分増えたのだから体積は変わらないと思わせて、実は体積が約3.7%増えているという策略であるとも言われる。
江戸幕府は江戸と京都に「枡座」を置いて枡の大きさを厳密に統制したので、江戸時代の約300年間大きさの統一が保たれた。

新京升による1升は縦横49分、深さ27分であるので、49分×49分×27分 64,827立方分となる。
この数字は「武者鮒」「虫や鮒」と語呂合わせで覚えられていた。

1875年(明治8年)、明治政府は新京升を公定の升に定めた。
メートル条約批准後に制定された度量衡法で、メートル法に基づいて1尺が(10/33)メートルと定められた。
分は尺の100分の1であるので、1升 = 64,827立方分×((10/33)(メートル/尺)×(1/100)(尺/分))3 = 約0.0018039立方メートル(m3) = 約1.8039リットルとなった。
1959年、計量法の施行によりメートル法以外の単位の使用は規制され、升は公式には使用されなくなった。
ただし、今日でも日本酒などの一部の酒類は1.8リットル単位で取引されている。
約1.8リットルの液体が入る瓶は「一升瓶」と呼ばれており、酒類の他、油脂食用油脂や醤油などにも用いられてきたが、近年はペットボトルに移行する傾向にあり、業務用のものを除き次第に廃れてきている。

升と文化

上記のとおり、「升」は「ます」と訓ずる。
また、5合は2分の1升にあたるため、「二升五合」を「ますますはんじょう(益々繁盛)」と判じ読みを行う。
しばしば、湯飲みなどに「春夏 二升五合 冬」と書いて、「商い(秋無い)益々繁盛」の縁起物とされる。
また、1斗が5升の倍にあたることから、「一斗二升五合」と書き「五升倍 升升 半升」と解して「御商売 益々 繁盛」と洒落として読むこともある。

[English Translation]