古代日本の地方官制 (Local Bureaucratic System of Ancient Japan)

地方官制(ちほうかんせい)は、701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成された。

県(アガタ)

4世紀~6世紀頃?
『古事記』成務段
「大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めたまい、また国々の堺、及び大県(おおあがた)小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまう。」

『日本書紀』成務紀
4年「今より以降国郡に長を立て、県邑に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ。」

5年「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く。」
「則ち山河を隔(さか)いて国郡を分ち、阡陌に随ひて、邑里を定む。」
(阡陌は南北・東西の道の意)

成務天皇は13代で、応神天皇(15代)仁徳天皇(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、時代でいうと古墳時代の前期にあたる。
この時代に全国的に国造・県主を配置したとは考えがたく、記事そのものは『日本書紀』の潤色であると考えられている。
また成務天皇自体の実在性が疑われている。
しかし、この記事が、ヤマト王権において、服属させた周辺の豪族を県主として把握し、県主によって支配される領域を県(アガタ)と呼んでいたことを伝えていると考えることはできる。

県(コホリ・コオリ)

6世紀後半~7世紀中?

『日本書紀』安閑天皇二年(535)5月に屯倉の大量設置の記事がみられるが、これらの屯倉の名前の多くが、現存する地名と一致し、その実在を確認できる。
また、同年八月の条に、犬養部の設置記事がみられるが、現存する屯倉の地名と犬養という地名との近接例も多いことから、屯倉の守衛に番犬が用いられた(番犬を飼養していたのが犬養氏)だということが明らかになっており、屯倉や犬養部の設置時期も安閑天皇の頃(6世紀前半頃)に始まったと推察される。

この屯倉がある程度発達・広域展開した段階で、屯倉を拠点として、直接的に地方を把握・管轄した単位が県(コホリ)であり、のちに律令制における郡(コホリ)へと発展していったと考えられている。

県(アガタ)と県(コホリ)との違いは、前者が在地首長の支配力に依存し、間接的に地方を把握するものであったのに対し、後者は直接的に地方の把握・支配の体系を作り出そうとしていたところにあるだろう。

国造(くにのみやつこ)

ヤマト政権は、地方の大首長を国造などに任命し、政治的支配をそのまま認める形で、全国的に支配していた。
しかし、吉備国造や筑紫国造(527年の磐井の乱)などの反抗もあったが、古代国家統一の情勢にあり、日本の古代国家の成立期に当たると考えられている。
これは、継体朝が終わり欽明朝が始まった時期に当たる。

律令制下の地方官制

地方の行政組織が全国的規模で動き出したのは天武朝においてであったと推定されている。

その基礎となる戸は、正丁(せいてい)成年男子を三丁ないし四丁含むような編成を編戸(へんこ)といい、一戸一兵士という、軍団の兵士を選ぶ基礎単位になった。

行政区画は、天皇の権力の及ぶ範囲、畿内(大和・摂津・河内(後、和泉が分立)・山城)と七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)に分け(道制)、その下に66国と壱岐国(いき)嶋、対馬国(つしま)嶋が置かれた。
このような行政区画以外にも、東国・坂東と陸奥国・出羽国があった。
行政組織は全て太政官左右弁官局の共同管轄下に置かれた。

地方は一般に国・郡・里の行政組織に編成され、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。
里は、715年(霊亀元)郷に改め、郷を2、3の里に分ける。
国は大区画であり、群は中区画である。
群は大宝令(701年大宝元年)以前は評と呼ばれた。

地方の役所は官衙(かんが)といい、国と群に置かれ、国府(国衙)・群家(郡衙)といった。
地方の行政機関は、庶民を統制して、租税を収奪する機構である。

中央政府と地方行政組織を結ぶ日本の古代道路(幅約6~12メートル)が整備され、さらに、関や駅なども整備された。

国司

国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)・史生(しせい)が置かれた。
国司は、中央から天皇のミコトモチ(御言持)として交替で赴任し、郡司を指揮して国内の支配に当たった。

国にも大・上・中・下の四等級があり、中国には介がなく、下国にはさらに掾も置かれないなど、職員の異同があるが、等級区分の基準はつまびらかではない。

国は、天武10年(681年)以前に、律令制の国が成立していたと考えられる。
伝飛鳥板蓋宮址から多数の木簡が出土し、それらの木簡の中に「辛巳年」という「天武十年」に相当する年紀が書かれていた。

軍団

因みに、諸国には軍団が設置され、国司がこれを統率した。

軍団は、兵士千人で構成され、大毅(だいき)一人・少毅二人がおかれた。
その内部は、五十人で一隊(騎兵隊・歩兵隊)で構成され、隊正(たいせい、五十長)が隊を、旅帥(りょそち、百長)が二隊(百人)を、校尉(こうい、二百長)が四隊をそれぞれ統率した。
そのほかに事務職員の主張が一人置かれた。
実際は千人に満たない軍団もあった。
六百人以上の場合は、大・少毅各一人、五百人以下ならば、ただ毅が一人置かれた。

大毅・少毅(あわせて軍毅という)もまた郡領と同じく在地の首長層から任命された。

郡司

郡司は、大領(だいりょう)・少領(しょうりょう)・主政(しゅせい)・主帳(しゅちょう)が置かれた。
大領・少領を合わせて郡領という。
郡領にはかつての国造一族などの在地首長が任ぜられた。
終身の職であった。

郡は二十里、二十里は千戸を上限として、その領内に含まれる里数によって五等級に区分される。
大郡は十六~二十里、上郡は十二~十五里、中郡は八~十一里、下郡は四~七里、小郡二~三里で、下郡には主政が置かれず、小郡では大領・少領を区別せずにただ領一人にを置いた。

郡は、六世紀の中葉頃の欽明朝に屯倉の設置が拡大されていき、ヤマト政権の地方政治組織となっていった。
史の支配の及ぶ土地と人間の総体を指して「コオリ」と呼んだらしい。
コオリの称は、律令制下の郡の和訓とされ、現代まで受け継がれている。
郡の制度は701年(大宝元)施行の大宝令に始まるが、それ以前の地方行政組織は「評」と書かれ、「コオリ」と称された。

里長

里は五十戸で構成された。
その統率者が里長で末端行政を担った。
715年(霊亀元)に里は郷(ごう)と改称され、郷は2~3里に分かれ統率者は郷長であった。
郷里制に変わった。
里には里正が置かれたが、740年(天平12)頃を境に里は廃止され郷制に移行した。

畿内

全国はさらに畿内・七道に区分される。
畿内は当初大和国(やまと)・河内国(かわち)・摂津国(せっつ)・山城国(やましろ)の四カ国からなり、四畿内と称されたが、のち河内の国から和泉国(いずみ)の国が分立して五畿内となった。

道制

七道は京を中心にして四方にのびる幹線交通路(水路も含む)に沿った行政区分で、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道である。
このうち西海道には大宰府(だざいふ)が筑前の国に置かれ、国境の防衛や外交事務に当たるとともに、管内諸国島を国、郡、里の三段階で統轄した。
東北には多賀城(宮城県多賀城市)を置いて、周辺諸国を統率する広域行政を敷いた。

摂津職

さらに摂津の国には摂津職(せっつしき)が置かれ、国司の職務も兼ねた。
摂津職は、京に置かれ難波津を管理し、京と西国の間を上下する公使の検査などを本来の任務としたが、天武朝に難波が陪都(副都)とされ、また聖武朝にも難波宮が造営されると、その管理にも当たった。
難波宮の廃止に伴い793年(延暦12)には摂津職が廃止され、摂津国と改めた。

京職

京(平城京・平安京ほか)には左右の京職(きょうしき)が置かれ、京内の政務全般をつかさどった。
京は御所からみて東側が左京、西側が右京である。
縦横の大路によって碁盤目のようにきれいに区画された。
その区画を南北に連ねた列を坊(ぼう)と呼び、東西に並んだ区画を条(じょう)と呼んだ。
各坊には坊長が置かれ、左右京には条ごとに坊令(ぼうれい、条令)が置かれた。
この京(京職)、条(坊令)、坊(坊長)の行政組織は、国(国司)、郡(郡司)、里(里長)と対応している。

和泉監・芳野監

和泉監と芳野監は716年頃特別行政区画・行政組織としてそれぞれ河内・大和から独立した。
和泉には茅渟宮が芳野には吉野宮が置かれていたためである。
後に廃止されたが和泉はその後国として独立した。

河内職

河内職は道鏡が権力を握っていた時代、河内国に由義宮を建設し副都とした。
それに伴って河内国司を格上げして河内職とした。
道鏡失脚によって元に戻った。

鋳銭使

鋳銭使はもともと貨幣鋳造のための機関であったが818年に長門国司を廃止して長門国の行政も担った。
825年に廃止されて長門国司は復活し貨幣鋳造は鋳銭司に引き継がれた。

社会情勢の変化による官制

天災による飢饉や疫病などが各地に広がり、盗賊や海賊が出没し、社会不安が広がった。
社会の動揺を軍事的な手段で鎮圧する武力的な措置をとった。

731年(天平3)畿内に惣官(そうかん)、山陰・山陽・南海道に鎮撫使(ちんぶし)を新設。

732年(天平4)東海・東山・山陰・西海道に節度使(せつどし)を任命。

その他の施策

737年(天平9)陸奥(むつ)と出羽(でわ)とを結ぶ道が開かれた。
東北に対する施策。

戸籍制度・地方行政組織関連の年表

689年(持統4)飛鳥浄御原令、諸司に令一部二十二巻をわかつ。

670年(天智9)全国的に戸籍(庚午年籍)を造る。

690年(持統4)戸令により戸籍(庚寅年籍)を造る。

702年(大宝2)大宝律令を諸国に領下する。

703年(大宝3)庚午年籍を戸籍の原簿とする。

715年(霊亀元)里を郷に改め、郷を2・3の里に分ける。

718年(養老2)養老律令を選定する。

723年(養老7)墾田開発のため、三世一身法(さんぜいっしんのほう)を施行する。
11月奴卑口分田の班給を12歳以上とする。

[English Translation]