地方知行 (Jigatachigyo)

地方知行(じがたちぎょう)とは、江戸時代に征夷大将軍あるいは藩主が家臣に対して禄として与える知行を所領(地方と呼ばれる土地)及びそこの付随する百姓の形で与え、支配させること。
特に将軍が大名に土地を与える場合には特に大名知行(だいみょうちぎょう)と呼ばれている。

ここにおける地方知行の解説に大名知行は含めないが、必要に応じて大名知行の例についても言及するものとする。

概要

一般的に地方知行を受けるのは上中級の江戸幕府旗本及び御家人、諸大名の上級家臣である。
彼らは地頭と呼ばれ、知行として与えられた土地(知行地)を知行所(ちぎょうしょ)もしくは給所(きゅうしょ)と呼んだ(なお、幕府御家人の場合は格上である旗本の知行地である給所と区別する意味で給地(きゅうち)と呼称させた)。
また、知行は石高単位に応じて与えられたために実際の行政単位と合致しないことも少なくなく、1村を複数の地頭で分割する相給が行われることも珍しくなかった。

知行を受けた家臣を「地頭」とは呼ばれているが、中世の地頭とは違って職務上の必要による例外を除けば、城下町(旗本・御家人の場合は江戸)に在住する義務を負っていた(例外として、仙台藩では各家臣が仙台城下町と知行地との間を参勤交代していた)。
また、また旗本や大藩の上級家臣の中には独自の法制(地頭法)を持つ者もいたが、徴税権・司法権、その他の行政権などの所領に対する支配権(知行権)の行使は主君である将軍・大名によって規制されるのが一般的であり、時代が進むにつれてその傾向が強くなった(もっとも、所属する主家の方針や地頭である家臣の方針によってその強弱に格差があった)。

なお、大名知行の場合は、将軍の家臣である大名は「領主」、その知行地は「領分」と呼ばれていた。

これに対して所領ではなく蔵米の形で与える知行を蔵米知行と呼ぶ(なお、大名知行の場合、一部が蔵米知行である場合は存在したが、知行全てが蔵米支給であった大名は存在しなかった)。

地方召上と地方直

将軍や大名が家臣の知行を地方知行から蔵米知行に改めることを「地方召上(じかためしあげ)」と呼び、逆に蔵米知行から地方知行に改めることを「地方直(じかたなおし)」と呼んだ。
伝統的に武士階層は土地(地方)をもって所領を与えられることを望んだことから、地方召上に懲罰的要素を含む場合や反対に地方直に恩賞的要素を含む場合もあった。

江戸時代初期には諸藩においては地方知行を行う例が多く蔵米知行は下級家臣に限られていたが、次第に大名の支配権力と財政基盤の強化のために上級家臣に対しても地方召上を行って蔵米知行に変更されることが多くなった。
元禄期の作とされる『土芥寇讎記』によれば、当時243の藩のうち地方知行が行われていたのは外様大名系の大藩を中心とした39藩に過ぎなかったとされている。
ただし、前述のように地方召上には懲罰的な意味合いを持つケースもあったために、移行の際のトラブルが御家騒動に発展する可能性もあった。

これに対して、比較的余裕を有していた江戸幕府では地方直を行って旗本の知行を蔵米知行から地方知行に改めることでこれまでの働きに対する恩賞として、旗本たちの歓心買うとともに将軍への忠誠を高めようとした。

徳川家康の関東地方移封後に伴う天正19年(1591年)の所領の再配分と関ヶ原の戦いと大坂の陣の両戦後に行った親藩・譜代大名及び旗本に対する広範囲のな加増・転封についても地方直としての側面もある。
しかし、江戸幕府が地方直を目的として大規模に行ったものとしては、寛永10年(1633年)と元禄10年(1697年)に行ったものである。

地方知行の性格

地方知行の性格については歴史学者の間でも意見が分かれるが、大きく2つに分けられる。
ひとつは、土地で知行を与える行為を中世のものとみなし、地方知行を中世の制度の名残として次第にそこから脱却して近世的な蔵米知行に移行していった考える説である。
次に、大名知行がその知行の全部あるいは一部分を必ず土地をもって与えていることから地方知行を近世幕藩体制の根幹とみなして蔵米知行はそれを補うものに過ぎないとする説である。

商場知行制

なお、諸藩のうち松前藩のみは米の収穫のない土地を領有していたため、家臣に対してアイヌ民族との交易場であった商場を地方にかわる知行として与えていた。
これを商場知行制(あきないばちぎょうせい)と呼ぶ。

[English Translation]