堺県 (Sakai Prefecture)
堺県(さかいけん)は、明治時代初期に存在した県。
堺市(現在の大阪府堺市)が県庁所在地であった。
範囲は現在の大阪府東部と南部地域であるが、後に奈良県全域が編入された。
県庁は西本願寺堺別院に置かれた。
江戸時代には天領であった堺とその周辺は、江戸幕府の崩壊後に徳川氏から朝廷に接収されていたが、慶応4年(明治元年・1868年)に入ると堺事件の発生などもあり、新しい行政組織の設立が急がれる事となった。
そこで同年6月22日 (旧暦)(新暦8月10日)に堺とその周辺を範囲として発立されたのが堺県である(一説には当初は「境県」が正式名称だったとも言われている)。
初代知事は、官選で、小河一敏。
上からの「仁政」すなわち民に情け深い治政をすべきだとの強い儒教思想の持ち主で独自の県治方針を抱いていた。
大雨で氾濫する大和川の治水工事を官費では間に合わないので自分や幹部の年俸を拠出して積極的にすすめた。
また、県札を発行して、経済流通の活性化、全国の小学校開設に先立って郷学校を再興して県学として近代教育のスタートを切るなど、中央の統制を越えて、積極的な地方行政を押し進めようとした。
このため明治政府と対立、明治3年10月に早々と免官になってしまう。
二代目の税所篤、県令の時代にも、県師範学校・医学校・病院・女紅場(女学校)・堺版教科書の発行など教育行政が進められた。
そして堺灯台の建造など港湾改修・紡績所・レンガ工場・堺博覧会など商工業振興のほか浜寺公園と大浜公園 (堺市)の開設など先進的に県政がすすんだ。
明治2年8月2日 (旧暦)(1869年9月7日) - 河内国の旧天領から構成された河内県を編入合併する。
明治3年2月27日 (旧暦)(1869年3月28日) - 一部(高野山金剛峯寺領)が新設の五條県に編入される。
明治4年11月22日 (旧暦)(1872年1月2日) - 廃藩置県後の県の整理統廃合に伴い、岸和田・伯太・吉見・丹南4県(全域)と五條県の一部を編入合併。
「堺県」が正式名称として確定する。
明治6年(1873年) - 日本初の公園となる浜寺公園が開園。
明治9年(1876年)4月18日(新暦) - 奈良県全域を編入合併。
明治14年(1881年)2月7日 - 大阪府に編入。
明治14年に大阪府に編入されたことは廃藩置県後の県の整理の一環と見られるが、全国的に見ればその作業は完了しており、逆に大き過ぎる県の分割の方に問題が移りつつあった中での合併であった(現実に堺県の合併以後、北海道の再編と太平洋戦争後のアメリカ合衆国軍の軍政施行によって一時廃止された沖縄県以外に都道府県が廃止された例はない)。
そのため、府域が京都、東京や周辺地域と比べて最小で銀目廃止令による両替商の相次ぐ倒産に大名貸の不良債権による大阪経済の地盤沈下もあり大阪府を「府」に相応しい規模にするために行われたと考えられている。
その後、やはり府域の広大すぎる事が問題視され、明治20年(1887年)11月4日には、かつて堺県の一部となっていた奈良県が再度分離される事になる。