大宝律令 (Taiho Ritsuryo (Taiho Code))

大宝律令(たいほうりつりょう)は、8世紀初頭に制定された日本の律令である。
唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている。
大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。

成立

大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。
同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。
ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。

その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。
そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝 (日本)元年8月3日 (旧暦))、大宝律令として完成した。
律令選定に携わったのは、忍壁皇子・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らである。

大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。
翌702年(大宝2年2月1日 (旧暦))、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10月14日 (旧暦)には大宝律令を諸国に頒布した。

大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であった。
大宝律令において初めて日本国号が定められたとする説も唱えられている。

意義

7世紀後半以降、百済の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めることで、政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。
そのため、近江令、飛鳥浄御原令を制定するなど、当時の政権は、唐・朝鮮半島の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。
その集大成が大宝律令の完成であった。
これにより、日本の律令制が成立したとされている。
大宝律令による統治・支配は、当時の政権が支配していた領域(東北地方を除く本州、四国、九州の大部分)にほぼ一律的に及ぶこととなった。

内容

大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。
刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。

この律令の制定によって、天皇を中心とし、日本の官制(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。
役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。

また古代日本の地方官制については、国・郡・里などの単位が定められていた。
中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。

大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として、令集解古記などの他文献に残存している。
757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。

復元大宝令

大宝令と養老令の編目の順序は異なっていたと考えられているが、大宝令の編目順序は明らかでない。

[English Translation]