天下 (Tenka (the realm))
天下(てんか、てんが、てんげ、あめのした)とは、全世界を意味する概念。
字義的には「普天の下」という意味で、地理的限定のない空間のことであるが、用法によっては一定の地理概念と同じ意味に用いられることもある。
また一般に天下は、一定の秩序原理を伴い、その対象とされる地域・民衆・国家という形で捉えられる。
すなわち一般に「世界」は「世界観」がなくても客観的に存在しているものと認識されるが、「天下」は一定の秩序原理によって観念的に成立している。
読み
「てんか」は漢音、「てんが」はその連濁、「てんげ」は呉音である。
現在は「てんか」が普通だが、本来は「てんげ」と読んだ。
「天上天下」など成句の中には現在も「てんげ」と読むものがある。
定義と特徴
中国
中国における天下は、一般に中国王朝の皇帝が主宰し、一定の普遍的な秩序原理に支配されている空間であった。
天下の中心にあるのが中国王朝の直接支配する地域で、「夏」「華」「中夏」「中華」「中国」などと呼ばれる。
その周囲には「四方」「夷」などといった中国王朝とは区別される地域があった。
しかし、これらの地域もいずれは中国の皇帝の主宰する秩序原理に組み入れられる存在として認識されていた。
(中華思想、皇帝、天参照)
日本
日本における天下の概念は、はやく古墳時代に見ることができる。
当時、倭国王は中国王朝に対して倭国王または倭王と称していた。
しかし、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文などによれば5世紀後期ごろには国内に対して「ヤマト大王」(アメノシタシロシメスオホキミ)と称していたことが判明している。
これは、その時期までに、倭国内で「中国世界とは異なる独自の天下」概念が発生していた徴証だと考えられている。
『隋書』によれば7世紀初頭の大業3年(607年)に倭国王(原文「俀國王」)が隋皇帝煬帝への親書に自らを「日出處天子」と称したことも、中国世界と異なる天下概念が存続していたことを物語っている。
7世紀には律令制の導入とともに中国的な天下概念が移入された。
律令制の特徴である公民思想を伴って、「天下公民」という形で把握された。
王朝国家の進展に伴って、平安時代には一時「天下」の概念は廃れるが、鎌倉幕府の成立が「天下の草創」と認識されたように、武家社会の進展に伴って日本とほぼ同義の意味で使用されるようになった。
(天皇、律令制、天下統一参照)
朝鮮
朝鮮半島においては、歴史的に「天下」の用例は極めて少ない。
それは中国王朝を中心とする天下のなかにあった時期が極めて長かったことによる。
高句麗・新羅・百済の古代王朝、そして高麗の時代にも朝鮮を中心とする独自の天下概念がなかったわけではないが、高麗後期に朱子学が流入すると、名分論の立場から朝鮮中心の天下的世界認識に批判が加えられた。
一方で朱子学は自国を「小中華」「小華」などと認識する小中華思想を生んだ。
小中華主義は明代中国に流行しながら朝鮮では流行しなかった陽明学を異端視する風潮、清朝による中国支配を「中国が夷狄の支配に服するもの」と規定する認識となり、朝鮮こそが中華の本流であるという思想をはぐくんだ。
朝鮮では中国を中心とする「天下」概念と朝鮮を中心とする「天下」概念が並存していた。
ヴェトナム
ベトナムにおける天下の概念は、13世紀の元寇を契機として民族意識が昂揚するとともに出現した。
その天下概念は当初陳朝にいたるヴェトナム王朝を南越国の後継と位置づけ、その領域であった中国の嶺南地方からヴェトナム北部に至る地域に固有の天下概念を設定するものであった。
ところが18世紀末の黎朝末期のころになると、南越をヴェトナム王朝の正統とする史観に批判が加えられた。
阮朝の時代には自称国号も「大南」となり「越」字が消滅する。
このことは当時のヨーロッパ人が「トンキン」「コーチシナ」と呼んだ今日のヴェトナムの領域に天下国家が設定されるようになったと考えられている。
ヴェトナムの「天下」は主に中越関係に影響されながら、その領域を変容させた。
北方アジアの遊牧民
モンゴルを代表とする北アジア・中央アジアの遊牧民においては、中国王朝の「天」に対応あるいは類似する概念として「テングリ」概念が存在する。
テングリは今日においてはカムチャツカ半島からマルマラ海にまで遊牧民族の信仰生活に密接にかかわっている。
テングリは天の主宰神として運命神であるとともに、天そのものでもあり、創造神として現れることもある。
また今日ではテングリに対する祭祀はシャーマニズムに基づいて行われるが、アジアの遊牧民のシャーマニズムには宇宙三界観と呼ばれる独特の世界観があるとされている。
地上にはテングリの代理者として救世主的な英雄がしばしば遣わされ、この英雄は「テングリの子」というように呼ばれていた。
匈奴の単于やチンギス・カンをはじめとするモンゴル帝国のハーンはこの「テングリの子」を称した。
彼らはこのことにより地上の救済を観念上独占し、地上における唯一の君主として君臨する者と主観された。
このようにアジアの遊牧民にも一定の秩序原理に基づいた「天下」概念類似の地上世界観が存在したとされる。
しかし、そこには「テングリの子」に服属する者と敵対する者という二元的構造が存在するのみで、華夷秩序のように段階的な秩序構造は存在しなかったか希薄であった。
歴史的展開
中国における「天下」
殷の時代には世界としての「天下」はいまだ成立していなかったと考えられている。
周の時代に人格的な天の概念が成立すると、それにあわせて「天下」概念の萌芽が見られる。
「四方」「万邦」という用語がそれである。
「四方」というのは王朝成立の対象領域で、その経営の中心は周王のいる中国であり、その周囲にある異民族のいる土地のことである。
「万邦」というのは「民」と「疆土」のことで、「民」は異民族も含めた民、疆土にも異民族の土地が含まれていた。
周王は天命によりこの「万邦」を「受け」たとされた。
周の後期(春秋時代・戦国時代 (中国))には、周に封建制されていた諸侯が各自の国内・周辺地域に対する政治支配と同化を進めた。
また異民族自体が周に封建され、諸侯として大国化する例も見られた。
これにより多くの国に共通の文化圏、経済圏が形成され、黄河中流域を中心に「中国」概念も拡大された。
『春秋左氏伝』『国語 (歴史書)』などには「天下」の用法が確認される。
秦によって、周の支配していた地域が政治的に一元化されて統合されると、現実の政治世界に対応する明確な地理概念として「天下」概念は顕在化した。
秦の統一は「天下の統一」であり、中国が天下を統一したということは中国の拡大であった。
漢代になると、この「中国=天下」概念が現実の冊封関係に影響されて変容し、周辺諸民族をも含めた現代的意味での世界として「天下」概念が成立した。
冊封関係とは、周辺国家の首長を皇帝の臣下として君臣関係を取り結ぶもので、このことにより周辺国家の首長の支配下にある地域は、観念的に皇帝の主宰する秩序原理に組み入れられた。
南北朝時代 (中国)には一時中華の内部に複数の皇帝が出現し、天下の政治的分裂という現象が見られた。
唐の時代には中華帝国の皇帝は北方遊牧民族の諸国に対しても「大可汗」として君臨した。
タラス河畔の戦いに代表されるように、西方で匹敵するイスラーム帝国と軍事的衝突や交易など交渉があったが、唐朝はかつての秦漢帝国と異なり、その天下概念には匈奴のような対等国は基本的には存在しなかった。
ところが北宋の時代には、北方に遼・金 (王朝)の強大な王朝が出現した。
宋は圧迫されて北方の帝国と国家同士の擬制的な血縁関係(たとえば宋を兄、遼を弟とするような外交関係)を結んだ。
この時代の高麗なども両王朝に両属する形を取り、天下は全く二分されていた。
空前絶後の支配領域をもったモンゴル帝国、元 (王朝)は再び中国を統一したが、その統治においても、政治上南人(元南宋の民、江南の人士)と漢人(元金の民、華北の人士)は区別されていた。
このことは天下の政治的分裂が元の統治下において解消されなかったことを示している。
その後明王朝は秦漢帝国の理念に近い形で「中国」を統合するが、その天下はほぼ明王朝の支配領域と同義であり、世界大の広がりを持ったものではなかった。
明末に朱子学に対する批判が起こると、「修身斉家治国平天下」(『大学』)という儒教思想にも変化が起こった。
明末清初の王夫之は『大学』のあげる「平天下」はつまるところ国を治めるための思想(すなわち「治国」)を述べるに過ぎず、天下の次元には通用しないものであると述べて、これを尊重する朱子学を批判した。
一方明王朝の滅亡により本来的には夷狄であるはずの清王朝が中国を支配するという現実世界での華夷の逆転も「天下」概念に大きく影響した。
同時代の顧炎武は明の滅亡は「亡国」であるが「亡天下」ではなく、夷狄の王朝である清が皇帝となっても、中華の文明が維持される限り天下は継続するものであるという考えを述べた。
このように「天下」概念に対する検討・批判が加えられたが、このころの「天下」はいまだに中華帝国を中心として捉えられている。
皇帝を中心とする華夷秩序に理念づけられ、朝貢と冊封によって外国との関係を維持していた「天下」概念が変容するのは、1793年イギリスの外交使節ジョージ・マカートニーが派遣されたころからである。
マカートニーは主権平等主義に立つヨーロッパ外交に基づいて清と条約を結ぶことを望んだ。
しかし、清は中国を「地大物博」(土地が広く物産が豊かなこと)と述べ、恩恵を与える朝貢貿易ならまだしも対等貿易は不要であると突き返した。
やがて19世紀にはいると阿片戦争が起こり、敗北した清朝はイギリスなどと片務的な不平等条約を結んだ。
清朝としては清側に片務的であるのは皇帝の恩恵的配慮によるものであるからだという説明がされた。
アヘン戦争後も依然として清朝はヨーロッパ諸国を従来の「天下」概念の中で捉えようとしていたと見ることができる。
アヘン戦争後も清朝の外交姿勢が変化しないことを不満としたイギリスはフランスとともにアロー戦争をおこした。
そして、天津条約を締結し、その条文内で中国とイギリスをともに「自主の邦」として並列的に位置づけることを明文化することに成功した。
この結果、清朝は従来の華夷秩序に基づいてヨーロッパ諸国と外交することが不可能となり、新たに総理衙門を設けて対ヨーロッパ外交をおこなうこととなった。
ヨーロッパ諸国が主導して形成した近代外交体制は基本的に主権平等主義に基づき、対等国同士の外交という形式を取っていたため、この外交体制の拡大とともに華夷秩序も徐々に変容あるいは解体されることとなった。
現実の外交関係においては日清戦争での敗戦によって朝鮮が冊封関係から離脱し、そのことにより冊封と朝貢に基づく清朝の外交秩序は終焉を迎えた。
「天下」概念もこの影響を受けて、従来の華夷秩序に基づくものから変容した。
19世紀後半の清の駐英大使であった薛福成は中華と夷狄を区別する「華夷隔絶」の「天下」から中華と外国が対等に関係を維持する「中外連属」の「天下」へと転換したと述べている。
日本における「天下」
前述したように、日本(倭国)における「天下」概念の成立は古墳時代にさかのぼる。
5世紀後期の作成とされる江田船山古墳出土の鉄剣銘に「治天下□□□□□大王」とあり、□□□□□の部分は「ワカタケル」と訓ずると推定されており、雄略天皇に比定されている。
雄略は中国へ送った文書では「倭王武」と自称していたが、国内向けには治天下大王、すなわち中国とは異なる倭国独自の天下を治める大王、と称していた。
このことは、当時既に「倭国は中国世界と異なる独自の天下なのだ」という観念が発生したことを如実に物語っている。
以後の倭国王たちも治天下大王の称号を代々継承しているが、このことが背景となって、7世紀初頭に倭国王が隋皇帝への親書に「日出処天子」と自称した事件につながったと考えられている。
その後、8世紀初頭における律令制の移入と時を同じくして、中国風の天下概念が導入されることとなった。
この場合の天下はどちらかといえば実際の律令国家の支配が及んだ範囲という意味で、今日の日本列島における本州・四国・九州などにあてはまると思われる。
しかし、決して律令国家の直接支配の及んだ地域という意味ではなく、蝦夷など直接支配に含まれない異民族も内包していた。
すなわち中国王朝の天下思想と同じように「天下」の中心に律令国家の中心を設定し、天皇を主宰者とした秩序の及ぶ範囲で、周囲には「夷」に対応する異民族が配されていた。
このように、小中華主義的な色彩を強くしていた。
この「天下」概念は律令国家の崩壊、王朝国家・中世国家の進展によって徐々に希薄化したと考えられている。
源頼朝は幕府の創立にあたり、「天下の草創」と称したと九条兼実の日記『玉葉』に見えている。
この天下概念は上述の律令制における天下概念をふまえながらも、全く新しい国家・法制・秩序の場として創出されるものと観念されている。
しかし頼朝がこのような意識をもっていようと、この時期の天下概念はいまだ現実の天皇の王朝支配を克服しきれておらず、天下の主宰者としては天皇(あるいは天皇家の家督者としての治天の君)が期待されている事例が多い。
また義堂周信の日記『空華日用工夫集』によれば、足利義満は義堂との議論において、しばしば自身の政の対象として「天下」「天下之人」を問題としている。
このことは室町時代のころには徐々に将軍こそが天下の主宰者であるという意識が生まれてきていたとも考えられている。
ただし、義満については自身を「日本国王=治天」として位置づけているという研究もあり、後代に明確化される「天下人」概念に比べると、いまだに過渡期であったと見ることもできる。
(治天の君、承久の乱、建武の新政、『神皇正統記』参照)
室町幕府の支配が衰えると、このような天下概念を支える公権力が衰え、自力救済を原則とする下克上の社会に移行した。
やがてこのような実力主義社会から地方的な公権力として戦国大名が各地に領国を形成し、限られた範囲内での「公儀」=公権力を形成した。
日本列島の各地に形成されたこのような地域国家的な公儀を天下の公儀として形成しようとしたのが安土桃山時代の特徴である。
これに伴って、このような新しい秩序を主宰する主体としての統一者として「天下人」概念が登場した。
このような天下人による「天下一統」(この用語自体は南北朝時代から散見される)によって現実的な「天下」の地理概念はかなり明確化され、ほぼ今日の日本列島と変わらない領域として認識された。
(戦国時代 (日本)参照)
近世江戸幕府は「天下人=将軍」、「天下の公儀=幕府法」と位置づけ、そのもとに「地方的な公儀=藩法」として大きく二元的な法社会を形成した。
このようにして成立した幕藩体制国家は、対外関係を華夷秩序に擬制して編成し、具体的には海禁政策(鎖国)をとった。
このことは日本における「天下」概念をますます固有の地理概念である日本列島に近づけたと考えられる。
朝鮮における「天下」
朝鮮における「天下」概念はまず高句麗において成立した。
高句麗は自国を中華とし、周辺諸民族を夷狄視する小中華的天下観を持っていた。
それは同時に天や河に対する独自の信仰形式を内包していた。
広開土王碑には「永楽」という独自の年号が記載されている。
百済・新羅もそれぞれ独自の「天下」概念を有していたと考えられている。
一方で中国思想の影響の下に周の封建国としての箕子朝鮮神話が形成されており、儒教の教えが古くからこの地に根付いていた。
このことは中国の天下概念の中に朝鮮を位置づけようとする傾向を持っていた。
高麗時代には仏教・道教・シャーマニズムをよりどころとしながらも、朝鮮独自の天下概念を展開する壇君神話が成立した。
新羅は唐の太宗に国内で独自の年号を用いていることを咎められて以降唐の正朔を守っていたが、高麗前期には中国王朝の年号と高麗独自の年号を交互に使用していた。
国内では王は「朕」と自称し、死後は廟号を贈られ、王の命令を「制」「詔」などと記していた。
これは中国の華夷思想によると中国王朝の皇帝にしか許されないことであった。
さらに当時の宮廷の頌歌では「海東天子」や「南蛮北狄自ら来朝す」といった表現があり、当時の金石文には「皇帝陛下詔して曰く」と刻しているものもある。
天子の特権である皇帝祭祀も行われ、都であった開城は「皇都」と呼ばれた。
一方高麗時代の中国的「天下」概念では、中国内部に宋・遼、宋・金が並び立つ情勢のなか、宋を南朝、遼・金を北朝として両属する形を維持していた。
しかし、理念上は南朝を重視する傾向にあり、両朝の年号を併記する場合は南朝を先とすることが一般的であった。
そのため、宋によりその忠実さを「小中華」と称えられた。
中国に元王朝が成立すると、元は高麗に従来以上の服属を要求し、朕という自称や廟号、制・詔といった用語も廃された。
高麗国王は自称を「不穀」(穀は善の意で、不穀とは不善という意味で謙った自称)と改めた。
またこのころ朱子学が流入し、名分論が盛んとなった。
李氏朝鮮の時代には、明の冊封を受け国号を「朝鮮」としたこともあって、「明=李氏朝鮮」関係を「周=箕子朝鮮」関係と同一視する中華的な「天下」概念があった。
世宗 (朝鮮王)時代には女真・日本・対馬・壱岐・松浦・琉球などを自国に朝貢する対象と主観する「天下」概念も存在し、祀天もおこなわれた。
また明では陽明学が流行していたが、朝鮮ではこれを儒教の堕落とみる風潮があった。
清の時代には冊封を受け、服属しながらも知識人の間では明の崇禎年号が好んで使用された。
これは中国が清という夷狄の王朝に支配されているため、朝鮮こそが中華の本流であるという意識に基づいている。
ヴェトナムにおける「天下」
前述したように、ヴェトナムにおける「天下」概念の成立は13世紀にモンゴル軍撃退後の国威発揚に伴って顕著に確認される。
陳朝で成立した『大越史記』においては、秦漢時代に今日の広東からヴェトナム北部に存在した南越国をヴェトナム最初の正統王朝とし、この地域を対象とする「天下」概念が形成された。
この「天下」概念の実例としては、1428年に大越が明から独立した際、この時代を代表する文人であるグエン・チャイが「自趙丁李陳之肇造、我国与漢唐宋元而各帝一方」(趙佗の南越国・丁部領の丁朝・李朝 (ベトナム)・陳朝以来、我が国は中国の漢・唐・宋・元などの王朝と同じく帝を称して天下の一方に君臨してきた)と述べていることがあげられる。
ここに明らかなように、ヴェトナムの「天下」は中国の「天下」と同列なものとして主観されている。
このような「天下」概念の下では、従来の仏教・道教の神々にかわり、ヴェトナム土着の神々が尊重され、対外戦争に勝利するたびヴェトナムの土着神に対して加封(神々に対し新たに称号を加えること)がなされた。
このことはヴェトナムの「天下」概念において、皇帝はヴェトナム土着の神々より上位に位置していることとともに、民族固有の信仰がこのような「天下」概念を側面から支えていたことを示している。
15世紀末頃からこのような「天下」概念に若干の変化が起こった。
ヴェトナムの正史において南越国が徐々に本紀から外され、ヴェトナム独自の神話や伝承に基づく涇陽王・貉龍君・雄王などが正史における地位を向上させた。
それとともに中国領内にある嶺南地方をヴェトナムと一体として考える思想が衰退し、18世紀末には正史において南越国は正統から外された。
このころ現実のヴェトナムは黎朝の名目的皇帝のもとに北に「トンキン」と呼ばれた鄭氏政権、南に「コーチシナ」と呼ばれた阮氏政権が実質的に支配を二分している状況にあった。
このころの「天下」は黎朝の皇帝の下に成立しているトンキン・コーチシナを中心とした世界であったと考えられている。
19世紀に成立した阮朝では、中国向けには「越南」を名乗りながらも自称国号においては「大南」を称し、中華世界とは区別された独自の領域としてのヴェトナム世界が規定されるに至った。
北方アジアの遊牧民における「天下」
アジアの遊牧民における天下に類似する概念の歴史は、匈奴の時代にまで遡ることができる。
「天」にあたる概念としては「テングリ」という言葉が知られ、中国側の史料に「撐犂」と音写されている。
匈奴の君主である単于は「天降単于(テングリから降りてきた単于)」「天所立匈奴大単于(テングリによって立つ大単于)」と中国側の史料で表現されている。
ここに明らかなように、テングリは天界であるとともに、天神として人格神を指すこともある。
これは中国における「天」概念と非常に類似しており、両者の関連性がしばしば指摘されているが、どちらのほうが起源として古いかは明らかにされていない。
この「テングリ」概念はウイグルなどのトルコ系遊牧民やモンゴル系遊牧民にも共通しており、一貫して二面的に使用されている。
また人格神としての「テングリ」はモンゴルの宇宙創造神話において「テングリ・ハイラハン」という地上を作った創造神として現れる。
モンゴル帝国の時代には歴代大ハーンの外交文書のなかで、テングリの名の下に地上の支配を託された者として大ハーンを位置づける声明が確認される。
「耳の聞きうる限りの土地、馬でたどりつきうる限りの土地」「日出ずるところより日没するところまで」大ハーンの支配に服することが表明されており、そこには基本的に地理的限定はない。
最近の研究ではそもそもモンゴル帝国の国号としての「モンゴル・ウルス」そのものが本来的に「モンゴルの人々の集合体」というような意味合いで、地理的概念を含むものではないと指摘されている。
アジアの遊牧民の地上世界観にも、一定の秩序原理に基づき地理的限定を含まないという意味で「天下」概念と類似した構造を見ることができる。
また遊牧民の世界観の開放的な性質も指摘されている。
それは元朝治下に製作された原図を基にしていると思われる『混一疆理歴代国都之図』によく表されている。
「混一」という言葉はモンゴル帝国時代に用いられ始めた用語であることが指摘されているが、その意味は当時知られていた世界としてのアフリカ大陸・ユーラシア大陸が境界なく渾然一体となっているという世界観を表しているという。
これは中国的な華夷を区別する世界観とは異なり、非常に開かれたものであった。
同様にイランのイル・ハン国で編集された『集史』においては、世界中の歴史資料を総合し編纂し直して、世界の歴史像としての「世界史」を編もうという意図が看取されている。
モンゴル帝国にいずれは組み込まれる歴史であるという意味でモンゴル帝国中心ではあるけれども、主要地域の歴史をそれぞれ自立した形で並列的に扱っており、同時代までの中国歴代王朝の正史やヨーロッパ側の歴史書とは大きく異なっている。