宝亀の乱 (Hoki War (the rebellion of Emishi in Rikuzen Province in the Nara period))

宝亀の乱(ほうきのらん)は奈良時代に東北地方(後の陸前国)で蝦夷が起こした反乱である。
首謀者の名から、伊治呰麻呂の乱(これはりのあざまろのらん)とも呼ばれる。

乱の原因
伊治呰麻呂(これはりのきみあざまろ、これはるのきみあざまろ)は、陸奥国府に仕える俘囚の指導者で、上治郡(此治郡の誤記として「これはりぐん」、「これはるぐん」とする見解が有力)大領となり、蝦夷征討の功により宝亀9年6月25日 (旧暦)(778年7月24日)には外従五位下に叙されていた。
『続日本紀』には、陸奥按察使紀広純は、はじめ呰麻呂を嫌ったが、後にはなはだ信用するようになったこと、しかし同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は呰麻呂を見下して夷俘として侮り、呰麻呂は内心深く恨んでいたことが記載されている。
このことから乱の原因については一般に怨恨説が取られている。

乱の経過
宝亀11年3月22日 (旧暦)(780年5月1日)、紀広純が覚べつ城建設を建議し伊治城を訪れた機会をとらえた呰麻呂は、俘囚の軍(俘軍)を動かして反乱を起こし、まず大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺した。
陸奥介大伴真綱だけは囲みを開いて多賀城に護送されたが、城下の住民が多賀城の中に入って城を守ろうとしたのに対し、真綱と掾の石川浄足はともに後門から隠れて逃げ、住民もやむなく散り散りになった。
数日後に俘囚軍は多賀城で略奪放火をして去ったという。

当時多賀城の倉庫には、「兵器粮蓄、勝げて計うるべからず」(『続日本紀』)とある。

しかし、正史の記録は以後の経過を記さない。
多賀城の略奪についても、その指揮官は不明であり、征東大使藤原継縄の投入後も戦闘は拡大したと見られている。

戦後
記録がないために戦闘の終了時期は不明だが、9月には藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌天応 (日本)元年(781年)には「征伐事畢入朝」と『続日本紀』に見えることから乱は終結に向かったと推察されている。
しかし「遺衆猶多」と残党が多くいたことも見えている。

[English Translation]