富本銭 (Fuhonsen coin)
富本銭(ふほんせん) / 富夲銭(ふとうせん)は、683年頃に日本でつくられた銭貨である。
708年に発行された和同開珎より年代は古く、日本で最初の貨幣とされる。
この貨幣が実際に流通したのか、たんなる厭勝銭(まじない用に使われる銭)として使われたに留まったかについては学説が分かれている。
形状特徴
平均の直径が24.44ミリメートルの円形で、中央には一辺が約6mmの正方形(厳密には、0.5mmほど横長の長方形)の穴が開いた、円形方孔の形式である。
厚さは1.5mm前後、重さは4.25グラムから4.59グラムほど。
形式は、621年に発行された唐の開元通宝を模したものである。
表面には、縦に「富夲」と書かれ、横には7つの点が亀甲形に配置された七曜星という文様がある。
「夲」は「本」の異体字であると考えられている。
材質は主に銅で、アンチモンを含む。
これは、融解温度を下げ鋳造を易しくするとともに、完成品の強度を上げるために意図的に使用されたものと考えられる。
微量の銀、ビスマスも含まれていた。
「富本」というのは、唐代の百科事典『芸文類聚』が引く『東漢観記』の「富民之本在於食貨」(民を富ませる本は食貨に在り)という故事に由来する。
七曜星は五行思想の陰陽と、木・火・土・金・水を表し、天地の象徴を示していると考えられる。
富本銭発見の経緯
富本銭は、1798年(寛永10年)の古銭目録に、「富本七星銭」として図柄付きで載っており、昔から貨幣研究家の間では知られていた。
しかし、当時は江戸時代の厭勝銭(まじない用に使われる銭)とされた。
しかし近年になって1969年(昭和44年)に平城京跡から発掘され、1991年(平成3年)にはさらに古い藤原京跡から発掘された。
これにより、今まで最も古い貨幣とされてきた708年発行の和同開珎よりも古い可能性がでてきた。
1995年には、群馬県藤岡市の上栗須遺跡から1枚出土している。
1999年1月、飛鳥池工房遺跡から33点もの富本銭が発掘された。
それ以前には5枚しか発掘されていなかった。
33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片である。
完成に近いものの周囲には、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した溶銅である鋳張りなどが残っており、仕上げ段階に至っていないことから、不良品として廃棄されたものと考えられる。
富本銭が発掘された地層から、700年以前に建立された寺の瓦や、687年を示す「丁亥年」と書かれた木簡が出土しており、また『日本書紀』の683年(天武天皇12年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述がある。
これらのことから、発掘に当たった奈良国立文化財研究所は、同年1月19日に、和同開珎よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表し、大々的に報道された。
これにより、「最古の貨幣発見」「歴史教科書の書き換え必至か」などとセンセーショナルな報道がなされた。
その後、4月以降の追加調査では、さらに不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見された。
溶銅の量から、実に9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。
アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。
2008年3月、2007年11月に藤原宮跡から地鎮具として出土した平瓶(ひらか)の中に詰められていた富本銭9枚のうち8枚が従来のものと異なる書体であったと発表した。
このうち4枚は富本銭の特徴とされてきたアンチモンが含まれていなかった。
流通貨幣か厭勝銭か
この発見によって学会では一時、富本銭が「日本最初の流通貨幣(通貨)」だとする説が有力となった。
しかし、広く貨幣として流通していた証拠は未だに無く、富本銭が最古の流通貨幣であると断言することはできない。
逆に宗教的な目的を持った厭勝銭として造られた可能性も否定できないのである。
流通貨幣説
富本銭が『日本書紀』の683年(天武天皇12年)の記事の記述に沿っていること
国家主導の都市や寺院の建設には莫大な費用がかかり、動員された人々への支払いに充てる通貨が必要とされていたこと。
すでに民間では、無文銀銭が通貨として使われていたと考えられること。
日本の歴史上に残る貨幣発行は全て流通貨幣であり、厭勝銭という宗教的な目的の貨幣発行を示す記録はない。
富本銭だけが厭勝銭であると主張するのは不自然であること。
実際の取引で使われない厭勝銭であれば、ここまで精巧に作らなければならない必然性がないこと。
これらから、天武天皇が新しい国家建設のために計画的に発行したものである、と主張している。
厭勝銭説論
政治と宗教の関係が密接であった当時の事情から『日本書紀』の記述が、厭勝銭に関する規定として置かれた可能性も否定できないこと。
富本銭発行直後に贋金(私鋳銭)を禁じる法令が出されたとする記録がなく、その最初の例が和同開珎発行後であること(もし、富本銭が流通貨幣ならば、贋金の存在を放置していたことになる)。
和同開珎発行後に旧貨幣(富本銭)との交換基準が定められたという記録が発見されないこと。
奈良時代中期の文献でさえ初めての通貨発行を和同開珎が出された708年(和銅元年)と記述していること。
飛鳥池遺跡そのものが飛鳥寺の傍に存在しており、同寺または「造飛鳥寺司」と称される同寺造営のための臨時の官庁(造寺司)の関連施設と考えるのが適当であること。
などから、流通目的で富本銭が造られたとは考えにくいと主張している。
更に富本銭よりもさらに前の貨幣として無文銀銭が知られているが、これは銀の地金的な価値が認められて物々交換的に使われた秤量貨幣と考えられている。
富本銭と和同開珎との関係、貨幣としての価値、流通範囲、機能などはまだ不明な点が多く、今後の研究課題である。