寺田屋事件 (Teradaya Incident)
寺田屋事件(てらだやじけん)とは江戸時代末期の京都郊外の伏見(現在の京都府京都市伏見区)の旅館・寺田屋で発生した事件である。
以下の2つの事件が寺田屋事件と呼ばれる。
文久2年(1862年)に発生した薩摩藩尊皇派等の粛清事件。
慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。
薩摩藩粛正事件
文久2年4月23日_(旧暦)(1862年5月29日)に薩摩藩尊皇派が薩摩藩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって粛清された事件。
寺田屋騒動とも。
藩兵千名を率いて上洛した久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負った。
しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体がその路線であった。
このことに不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七らは同じく薩摩藩の尊王派の志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義 (若狭国小浜藩主)邸を襲撃することを決定し、伏見の船宿寺田屋に集まった。
当時寺田屋は薩摩藩の定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だったようである。
久光は大久保利通等を遣わしこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したため、彼らの同志である尊王派藩士を派遣して藩邸に呼び戻し、自ら説得しようとした。
ただし万が一を考え、鎮撫使には特に剣術に優れた藩士を選んだ(大山綱良・奈良原繁・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助。
さらに上床源助が志願して加わり計9名)。
大山綱良らは新七に藩邸に同行するように求めたが新七はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあいが始まった。
この戦闘によって討手1人(道島五郎兵衛)と新七ら6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負った。
また2階には多数の尊王派(大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎など)がいたが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降した。
負傷者2名は切腹させられ、尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡された。
引き取り手のない田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込み、斬殺された。
斬った柴山矢吉は後に発狂したという話がある。
彼だけでなく、鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い。
一方で、尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要路に立った。
この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かっていった。
なお、この事件が発生する前の4月16日 (旧暦)(5月14日)に、久光は近衛忠房らに公武合体を説いた意見書を提出し、朝廷から浪士鎮撫の勅命を受けていた。
よって巷間言われている薩摩藩の内輪もめという説は再考が必要なようである。
坂本龍馬襲撃事件
慶応2年1月23日_(旧暦)(1866年3月8日)、宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないし暗殺しようとした事件。
龍馬は同宿の養女・楢崎龍の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより危うく回避し、しばらくの間は西郷隆盛の斡旋により鹿児島に潜伏する。
お龍は風呂から裸のまま2階へ階段を駆け上がり危機を知らせた。
龍馬は主に銃で反撃。
左手の親指を負傷。
現在の寺田屋との関係
現在の寺田屋の建物には事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。
しかし、これらの事件当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は当時の敷地の西隣に建てられたものである(明治38年(1905年)に登記されている)。
現在の建物の東隣に建っている石碑「薩藩九烈士遺蹟志」の碑文(拓本)本文後ろから5行目に「寺田屋遺址」とある。
- 「南浜町」の項。
特に湯殿がある部分は明治41年(1908年)に増築登記されたもので、当時のものではあり得ない(お龍はその2年前に病没)。
当時の建物の敷地は現在の建物の東隣にある、石碑や像などが建っていて寺田屋の庭のようになっている場所(京都市伏見区南浜町262番地)であるが、この土地は大正3年(1914年)に所有者(寺田屋主人とは血縁関係にない)から当時の京都府紀伊郡伏見区に寄付され、市町村合併を経て現在は京都市の市有地である。