尊王攘夷 (Sonno Joi)

尊王攘夷(そんのうじょうい、尊攘)とは、王を尊び外圧・外敵を撃退しなければならないとする思想。
日本では、幕末に朝廷から一般民衆まで熱く論じられ、反体制運動の合言葉ともなった。

概要
国の存在の根拠としての尊王と、侵掠・侵入してくる外敵に対抗する攘夷が結びついたもの。
「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を攘(はら)う」の意。
古代中国の春秋時代において、周王朝の天子(王)を尊び、王朝を守るため侵入する夷狄(いてき=周辺諸民族。この時代の夷狄は南方の楚を指していた)を打ち払う、という意味で覇者が用いた標語を、国学者が輸入して流用したものである。
斉 (春秋)の桓公 (斉)は、周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させて、楚に代表される夷狄を討伐した。
その後、尊王攘夷を声高に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。
なお、中国では、周の天子(王)を「王」のモデルとしていたことから、本来「尊王」と書くが、尊王論が日本に受容されるに際して「王」とは天皇のことであるという読み換えが行われたことから、天皇は単なる国王ではなく皇帝であるという優越意識を踏まえて「尊皇」に置き換えて用いることもある。

尊王論

日本における尊王論とは、『古事記』・『日本書紀』が日本という国家の根拠を示したことに基づいて、日本国の存在の根拠を天皇(神)に依ろう、とする考え方。
文化・民族・国の根拠を神に依ろうとする発想は世界共通のもので、王の権威は神から授かったのだという考えに依拠する王権神授説などその流れは多様。
神に民族・国の根拠を依拠する思想は、その国・民族が危機に面するほど過激になるのも世界共通。

攘夷論

日本では、200年余り続いた江戸の太平の世の中では、外国のどこかへ行って物を取ってこよう、外国のどこかが日本に来て何かを持って行ってしまうかもしれない、という発想・実感はなかった。
ところが大航海時代以降世界に進出、支配領域を拡大したヨーロッパ、続く帝国主義の波に乗ったアメリカ合衆国によるアフリカ・アジア進出・侵略・植民地化は、東アジア各国にとっても脅威となった。

アメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官ペリーが来航した時には「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌が読まれた。
<上喜撰>とは当時の玉露茶の商品名。
上喜撰を飲んで「たった四杯で夜も眠れなくなる」ことと、異国の蒸気船が来航して「たった四杯(隻)で国中が蜂の巣をつついたような騒ぎとなり夜も眠れないでいる」こととをかけて世の騒動を揶揄している訳である。

中国南部では清国がイギリスと戦争(アヘン戦争)となり香港を奪われ、日本でも北海道でゴローウニン事件、九州でフェートン号事件といった例などの摩擦が起こり始めた。
これに対応するためには、「開国」して外来者を受け入れ自らも外へ出て行くか、外来者を追い払って(これまでの)平和を維持するかのどちらかであるが、「攘夷」は後者の発想・考え方。
また、国内では国学 (学問)の普及にともなって民族意識がとみに高まった時代でもあった。
ことは複雑で事態は単純ではないが、大きな流れとしては、江戸幕末では「開国」を主張する徳川幕府や薩摩藩と、「攘夷」を主張する長州藩の対立となった。
ところが、欧米列国の圧力により修好通商条約に天皇が勅許を出した(1865年)ことにより「尊王」と「攘夷」は結びつかなくなった。
また、津和野藩の大国隆正らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一や富国強兵を優先すべきだとする大攘夷論が唱えられた。
これは、「開国」と「攘夷」という相反する対外思想が「討幕」という一つの行動目的へと収斂される可能性を生んだ。
土佐藩の坂本龍馬らの斡旋・仲介・手助けもあって、幕末日本の薩摩と長州の二大地方勢力は討幕へと向かっていくことになる。

[English Translation]