小御所会議 (Kogosho Conference (the meeting held in the presence of the Emperor in the Kogosho Conference Room of Kyoto Imperial Palace at the night of January 3, 1868, when the Decree for the Restoration of Imperial Rule was issued))

小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日 (旧暦)(1868年1月3日)に京都の京都御所で行われた国政会議。
同日に発せられた王政復古の大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参与)からなる最初の会議である。
すでに大政奉還していた徳川慶喜の官職(内大臣)辞職および徳川家領の削封が決定され、倒幕運動の計画に沿った決議となったため、王政復古の大号令と合わせて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。
その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩連合による公議政体論路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。

この項では小御所会議前後の状況も合わせて記述する。

大政奉還後の政局

薩摩藩の大久保利通・小松清廉・西郷隆盛らは、5月の四侯会議の失敗から、従来の公議体制路線を改め、武力倒幕路線に転換する。
大久保利通らは謹慎中の公家岩倉具視と連携し、討幕の密勅を得るべく朝廷に工作を始めていた。
軍事的緊張が高まるなか、土佐藩では坂本龍馬の助言(船中八策)を受けた後藤象二郎が、武力激突を回避する大政奉還論を前藩主山内容堂に提案。
自らの政治的影響力を保持したいと考えた将軍徳川慶喜はこれを受け入れ、10月13日在京の諸藩士を二条城に招集し、大政奉還を諮問した(翌日、朝廷へ奏上)。
同じ13日、薩摩藩へ(翌日には長州藩へ)討幕の密勅が下される寸前に、倒幕派の機先を制した恰好となった。

慶喜としては、まだ年若い明治天皇(当時数え年16歳)を戴く朝廷に政権担当能力はなく、やがて組織されるであろう諸侯会議で自らが議長もしくは有力議員となるなどの手段で、政治的影響力を行使できるはずという目論見の上での政権返上であった。
果たして倒幕派の勢力はまだ弱く、10月21日朝廷は討幕の密勅の中止を指示、23日には外交権がまだ幕府にあることを認める通知を出す。
こうした状況下、10月24日徳川慶喜は将軍職の辞表を提出するが、これは当然不受理となることを見越した上でのものであり、実際朝廷から保留されている。

倒幕派は朝命で諸藩へ上京を命じるが、政局の激変を様子見している藩が多く、応じる藩は少なかった。
11月13日島津忠義(薩摩藩主)率いる薩摩軍3000人が上京するが、他藩の動きは鈍かった(なお同じく倒幕派の長州藩は禁門の変以来朝敵となっており、入京を許可されていなかった)。

王政復古の大号令

詳細は王政復古を参照。

上記のような閉塞状況を打破するため、大久保利通や岩倉具視は秘かにクーデター計画を練る。
12月8日夕方から深更にかけて行われた朝議で、毛利敬親(長州藩主)・毛利元徳(同世子)の官位復活と入京許可、三条実美ら八月十八日の政変で追放された5人の公卿の赦免、および岩倉具視ら謹慎中の公卿の処分解除が決定された。
翌9日未明、公卿たちが退廷した後、待機していた薩摩藩・芸州藩・尾張藩など5藩の軍が御所9門を固め、摂政二条斉敬をはじめ要人の御所への立ち入りを禁止した後、明治天皇臨御の下、御所内学問所において王政復古の大号令が発せられた。
新政権の樹立と天皇親政をうたい、摂政・関白・征夷大将軍職の廃止、新たに総裁、議定、参与の三職を置くなどの方針が発表された。
これにより、二条摂政や久邇宮朝彦親王ら親幕府的な公卿は発言権を失うことになった。

この大号令を受けて、さっそく新設の三職を小御所へ召集し、同日18時頃から小御所会議が開かれた。

小御所会議の構成員

天皇
明治天皇
総裁
有栖川宮熾仁親王(皇族)
議定
小松宮彰仁親王(皇族)
山階宮晃親王(皇族)
中山忠能(公家)
正親町三条実愛(公家)
中御門経之(公家)
徳川慶勝(元尾張藩主)
松平春嶽(前越前藩主)
浅野長勲(芸州藩世子)
山内容堂(土佐前藩主)
島津忠義(薩摩藩主)
参与
公家
大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、岩倉具視、橋本実梁
尾張藩士
丹羽賢、田中不二麿
越前藩士
中根雪江、酒井十之丞
芸州藩士
辻維岳、桜井与四郎
土佐藩士
後藤象二郎、神山郡廉
薩摩藩士
岩下方平、西郷隆盛、大久保利通
これらの参席者は王政復古に伴い三職(総裁・議定・参与)に任ぜられたものである。
ただし各藩の藩士はほとんどが後日(12月10日~12日)の追任であり、小御所会議に出席していない尾張の尾崎良知、越前の毛受鹿之助、芸州の久保田平司、土佐の福岡孝悌も参与に追任されている。

大久保や西郷としては、王政復古の大号令の際に、慶喜の辞官(内大臣の辞職)・納地(徳川家領の返上)の勅命を出させ、徳川家を無力化させることを企図していたが、議定山内容堂・松平春嶽らの抵抗により、審議は小御所会議にずれ込んだ。

小御所会議の展開

明治天皇の外祖父である議定中山忠能から開会が宣言された後、公家側から「徳川慶喜は政権を返上したというが、果たして忠誠の心から出たものかどうかは怪しい。忠誠を実績を持って示す(辞官納地を指す)よう譴責すべきである」との議題が出される。
しかし山内容堂はそれを遮り、「この会議に、今までの功績がある徳川慶喜を出席させず、意見を述べる機会を与えないのは陰険である。数人の公家が幼い天皇を擁して権力を盗もうとしているだけだ」と論陣を張った。
それに対し、岩倉が「帝は不世出の英主であり、今日のことはすべて天皇のご決断である。それを幼い天皇とは妄言である」と論駁したため、容堂が失言を謝罪した。
ただし、この容堂と岩倉のやり取りは後に作られた「挿話」であるという説もある。

松平春嶽が容堂に助け船を出し、慶喜の出席を重ねて求めたが、岩倉や大久保利通は徳川家の罪状を並べてこれを断然拒否する。
大久保は慶喜が辞官納地に応ずることが前提であり、それがない時は免官削地を行いその罪を天下にさらすべきと主張したが、後藤象二郎は公明正大な措置が肝心でこの会議は陰険であると容堂の論を支持。
大久保・後藤の間で激論が交わされる。
しかし、徳川慶勝・松平春嶽が容堂を支援。
岩倉・大久保案は島津茂久が賛同したのみで、会議の趨勢は慶喜許容論に傾きつつあった。
中山忠能が場を納めようと正親町三条実愛らと協議しようとしたところ、岩倉が「天皇の御前会議で私語するとは何事か」と叱り、一時休憩となった。

休憩中、岩倉は浅野茂勲に対し、この会議での妥協はあり得ず、いざというときは非常手段を取らざるを得ないとの覚悟の程を語り、茂勲の賛同を得る。
その知らせを辻将曹が後藤に伝え、妥協を促した。
後藤もここに至っては無駄な抵抗となることを悟り、山内容堂を説得。
結局、春嶽・容堂ともに決議に従うこととなった。
こうして夜半まで続いた小御所会議は決着し、松平春嶽・徳川慶勝が慶喜へ辞官納地の決定を伝え、慶喜が自発的にこれを申し入れるという形式をとることが決定された。

新政権の三職を集めて行われた初めての会議であったが、上記のごとく岩倉・大久保・後藤を除けば小御所会議での実際の発言はすべて議定からなされており、実質的には諸侯会議の色彩が強かった。

以後の政局への影響

小御所会議で徳川慶喜の辞官納地が一応決定されたため、一般的には王政復古クーデターは、薩摩・長州など倒幕派の勝利と受け取られることが多い。
しかし慶喜はもちろんのこと越前・土佐・尾張などの親幕派の執拗な抵抗により、辞官納地案は次第に骨抜きとされ、それほど倒幕派の思惑通り事態が進んだわけではない。
結局倒幕派が完全に主導権を握るのは翌年初めの鳥羽・伏見の戦いまで待たねばならなかった。

※以下、日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。

諸侯会議派の巻き返し

小御所会議での辞官納地の決定は翌10日、松平春嶽・徳川慶勝によって徳川慶喜に伝えられたが、慶喜はただちに実行すれば部下が激昂するとの理由で猶予を求めた。
同日赦免された長州藩兵が入京したこともあり、大久保は強気に出るが、京都には会津藩・桑名藩などの徳川方諸藩の兵も駐在しており、戦闘回避を求める声も強かった。
ここから春嶽・慶勝・容堂ら反倒幕派が巻き返しを図る。

山内容堂は12日、辞官納地問題を松平春嶽の周旋に委任することを求める建白書を新政権に提出。
14日には仁和寺宮(議定)が岩倉や大久保ら身分が低い者を抑えるべく身分を正すことを求める意見書を提出した。
これらの情勢から岩倉までもが弱気となり、同日松平春嶽が辞官納地の具体的内容を岩倉に迫った際も、岩倉は慶喜が「前内大臣」と名乗ればよいとし、領地については確答を避けるなど弱腰になってしまう。
岩倉は慶喜が辞官納地に応じさえすれば慶喜を議定に任じるという協調策を大久保・西郷らに提示した。

いっぽう、13日に大阪城に戻っていた慶喜は、16日にはイギリス・フランス第二帝政・オランダ王国・アメリカ合衆国・イタリア王国・プロイセン王国6国の公使を引見し、王政復古後も外交権が自らにあることをアピールするなど、強気の姿勢を崩していなかった。
大目付永井尚志も薩長二賊を討つべしと主張。
慶喜は大目付戸川安愛に薩長の非をならす上表文を持たせて上京させるとともに、在京の譜代大名諸藩軍へ上坂を命じた。

一方、新政府側でも19日大久保と寺島宗則が、新政権の諸外国への承認獲得と外交の継続宣言をすべく、アーネスト・サトウ(英国公使館付通訳)やシャルル・ド・モンブラン(フランス貴族)と協議し、新政権から諸外国への通達詔書を作成する。
しかし松平春嶽・山内容堂らは、その文面に「列藩会議を興して国事を議する」とあることを逆手に取り、小御所会議は所詮数藩の代表のみであり列藩会議とは言えないとして、改めて議論を行うべきと主張し、諸侯会議派がますます勢いを得た。

こうして22日には土佐藩邸に松平春嶽と永井尚志が集って原案を作成し、23日・24日に再び三職会議が召集される(岩倉は欠席)。
ここにおいて、徳川家の納地は「政府之御用途」のため供するという表現となり、慶喜に対する処分的な色彩は全く失われた。
さらに実際の納地高も「天下公論の上」すなわち諸侯会議における議論を経て決定するとされた。
この結果は春嶽・慶勝によって慶喜にもたらされ、慶喜も承諾。
ここに小御所会議の結果は無意味化し、辞官納地問題は骨抜きとなり、かえって慶喜を含む諸侯会議派が勢いを得る結果となったのである。

薩摩藩の挑発と幕臣の暴発

こうした状況を焦慮した西郷は、幕府側を挑発するという非常手段(作略)に出る。
江戸の益満休之助・伊牟田尚平に命じ、相楽総三ら浪士を集めて江戸市中に放火・掠奪・暴行などを行わせる攪乱工作を開始。
江戸警備の任にあった庄内藩がこれに怒り、12月25日勘定奉行小栗忠順ら幕閣の了承の下、薩摩藩および佐土原藩(薩摩支藩)邸を焼き討ちするという事件が発生した。

大目付滝川具挙・勘定奉行並小野友五郎らによって、江戸の薩摩藩邸焼き討ちの報が12月28日大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。
薩摩討つべしとの主戦論が沸騰し、「討薩表」を携えた滝川が翌慶応4年(1868年)正月3日鳥羽で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった(詳細は鳥羽・伏見の戦いを参照)。
戦いは徳川方の敗北となり、慶喜は大坂城を脱出して江戸へ退却。
ここに慶喜は正式に朝敵となり、追討令が出されるに至った。
慶喜寄りの諸侯会議派もまたこの戦いの結果、倒幕派への転換を余儀なくされたのである。

諸侯会議論の後退

鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府は、徳川家追討とともに新たな行政制度を整える必要から三職の下に七科を設置、のちに三職八局制となる(詳細は近代日本の官制明治時代初期を参照)。
この間、名目的に要職に任じられた公家・諸侯らが実務に疎かったことから、各藩から召集された徴士が実務を握り、維新官僚として成長し、次第に行政の主導権を握るようになる。
1月より持ち越しの由利公正(越前藩士)が起草した新政府の方針案では、諸侯会議派である土佐藩の福岡孝弟が第一条冒頭に「列侯会議ヲ興シ」の字句を挿入し、表題も「会盟」と改めており、3月の木戸による国是建議の後提出したが、もはやこの時期には列侯会議は必要性を失していた。
福岡の草案は長州藩の木戸孝允や岩倉・三条実美らの手により「広ク会議ヲ興シ」と修正され、形式も諸藩の会盟から天皇以下諸臣が国是を誓うという形式となり、五箇条の御誓文として発せられた。
ここに雄藩諸侯会議路線は潰え、有司(維新官僚)専制による明治維新への道が開かれるのである。

[English Translation]