小泉藩 (Koizumi Domain)
小泉藩(こいずみはん)は、大和国(現在の奈良県大和郡山市小泉町)に存在した藩。
居城は小泉陣屋。
藩史
小泉藩の藩祖は、豊臣秀吉に仕えて天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳七本槍の一人として名を馳せた片桐且元の弟・片桐貞隆である。
貞隆は兄と同じく秀吉に仕えて小田原征伐や文禄の役で武功を挙げ、播磨国内で1万石の所領を与えられた。
秀吉没後は豊臣秀頼に仕えた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、貞隆は徳川家康から所領を大和小泉1万石に移された。
これが小泉藩の立藩である。
貞隆は兄の且元と共に衰退していく豊臣氏を懸命に盛り立てたが、慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘問題を契機に兄と共に家康と内通していると秀頼らから猜疑された。
そのため、且元と貞隆は大坂城から退去して摂津国茨木城へ移った。
このとき、片桐軍は大坂城から退去するとき、300人の兵が完全武装の上、鉄砲の火縄に点火するという物々しいものであったと言われている。
この片桐兄弟の退去により豊臣氏は最後の柱石を失い、同年から始まった大坂の役で、家康により滅ぼされた。
戦後、貞隆は家康の家臣となり、6000石の加増を受け、小泉藩は1万6000石となる。
第2代藩主・片桐貞昌は貞隆の子で、片桐石州という通称名で有名な茶人である。
寛文5年(1665年)には将軍・徳川家綱の茶道指南となり、茶道石州流の地位を築き上げた。
そのほかにも、建築関係で功績が高い人物である。
貞昌は弟の片桐貞晴に3000石を分与したため、小泉藩は1万3000石となる。
貞昌の三男で第3代藩主・片桐貞房のときに庶兄・下條信隆に1000石を分与したため、1万2000石となる。
その後、さらに1000石を収公されて、総石高は1万1000石となった。
第5代藩主・片桐貞音は不手際から幕府に処罰された。
第8代藩主・片桐貞信は遜斎と号した茶人で、石州流中興の祖といわれている。
幕末期には藩主の早世が相次いだため、第11代藩主・片桐貞利からは他家の養子が迎えられるに至った。
しかしその養子も早世が相次いでいる。
最後の藩主となった片桐貞篤の時代に幕末を迎える。
貞篤は水戸藩松平氏の出身で、天誅組の乱鎮圧などに貢献するなどはじめ佐幕派であったが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に協力して京都守備を務めている。
明治2年(1869年)の版籍奉還で小泉藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免官され、小泉藩は廃藩となった。