川中島の戦い (Battle of Kawanakajima)

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代 (日本)に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。
最大の激戦となった第4次の戦いが信濃川と犀川 (長野県)が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。

概要
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。
実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであった。
一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日 (旧暦)(1561年10月17日)から9月10日 (旧暦)(10月18日))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。

川中島の戦い第一次合戦:天文 (元号)22年(1553年)
川中島の戦い第二次合戦:天文24年(1555年)
川中島の戦い第三次合戦:弘治 (日本)3年(1557年)
川中島の戦い第四次合戦:永禄4年(1561年)
川中島の戦い第五次合戦:永禄7年(1564年)

戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略と越後進出を目的とした。
結果として両者共に目的を果たせなかったが、武田氏の支配地は着実に北上している。

なお、上記の「五回説」が現在では一般的であるが、異説も存在する。
特に明治期には田中義成が軍記物の信憑性を否定し、上記第二次と第四次のみを確実とする「二回説」を提唱した。
1929年には渡辺世祐がはじめて五戦説を提唱し、戦後には小林計一郎以来この五回説が支持されている。
二回説は直接両軍が交戦した二回までは記録が残っているが、他の戦いは交戦を避けたりしている場合が多いことによる。
1932年の北村建信ら「二回説」を主張する研究者の理屈にも一定の説得力があるといえるが、一般的とは言いがたい。

背景

武田信虎時代から信濃国佐久郡に侵攻を始めていた甲斐の武田氏は、武田晴信(武田信玄)の時代の天文11年(1542年)に、ついに諏訪頼重 (戦国時代)を攻めて諏訪氏を滅ぼす事に成功する。
その後も信濃国への出兵を繰り返し、徐々に領地を広げて行った。
これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。

武田氏は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を次々と攻略していった。
天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で大敗させ、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。
天文17年(1548年)の上田原の戦いでは村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を撃破して、天文19年(1550年)には小笠原長時を追い払い、中信地方を制圧する。

同年、村上義清の支城の戸石城を攻めるが、一方的とも言える大敗を喫する(砥石崩れ)。
しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、砥石城を落とすことに成功。
また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。

対武田では村上氏と協力関係にあった善光寺平以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあった。
そのため、村上氏の勢力が衰退し代わって武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようなった。
特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であった。
このため、 越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。
更に当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。

川中島

信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる。
この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。
善光寺平の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と呼ぶ。
当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後を上回った。
鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多かった。
そのため、経済的な価値は高かった。
古来から交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。
武田にとっては善光寺平以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば中信地方(現在の松本平)に至る要地であった。

この地域には栗田氏や市川氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。
これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。

第一次合戦

川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは八幡の戦いとも言う。
長尾景虎が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信と戦った。

天文22年(1553年)4月、晴信は北信濃へ出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。
支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、景虎に支援を願った。
5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。
晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。
7月、武田軍は再び北信濃に侵攻し、村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。
8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。

9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。
布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、青柳城を攻めた。
武田軍は、荒砥城に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡まで兵を退く。
一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だった。
しかしながら、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。
晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。

この戦いは川中島を含む善光寺平より南の千曲川沿いで行われており、善光寺平の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。
長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかった。
しかしながら、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。
武田氏にとっても、善光寺平進出は阻まれたものの、小県はもちろん村上氏の本領埴科郡を完全に掌握できることになった。
したがって、両者とも相応の成果を得たといえる。

景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。
これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。
一方、晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めている。

なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある。
反面、武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。

第二次合戦
川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言う。
武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。

天文23年(1554年)、晴信は後北条氏、今川氏とそれぞれ同盟を結んで背後を固めた(甲相駿三国同盟)。
その上で、長尾氏の有力家臣北条高広に反乱を起こさせた。
景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。

天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返った。
そのため、善光寺平の南半分が武田氏の勢力下の置かれ、善光寺以北の長尾方諸豪族への圧力が高まった。
4月、景虎は善光寺奪回のため善光寺平北部に出陣した。
栗田鶴寿と武田氏の援軍兵3000は、栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城、景虎は旭山城を封じ込めるため、そして前進拠点として葛山城(長野県長野市)を築いた。

晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川 (長野県)を挟んで両軍は対峙した。
7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。
兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。
長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。

閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。
和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信濃国人衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。
これにより長尾氏の勢力は、善光寺平の北半分(犀川以北)を確保したことになる。

その後、晴信は木曽郡の木曾義康・木曾義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。

第三次合戦
川中島の戦いの第三次合戦は、弘治 (日本)3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言う。
武田晴信の北信濃への著しい勢力伸張に反撃すべく、長尾景虎は出陣した。
しかしながら、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。

弘治2年(1556年)、越後国では景虎が出家隠遁を図る事件が起きている。
家臣団が景虎への忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。
長尾氏が内輪もめを起こしている間に、晴信は北信濃国人衆への調略を進めた。
同時に真田幸隆に善光寺平東部の尼巌城(長野県長野市松代)を攻めさせ、8月にこれを陥れた。
更に景虎と不和になった大熊朝秀を調略し、反乱を起こさせて越後侵攻を図った。
結局、大熊朝秀の反乱は失敗し、甲斐国へ逃れている。

弘治3年(1557年)正月、景虎は武水別神社に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願している。
2月、晴信は長尾方の前進拠点であった葛山城 (信濃国)を落とし、高梨政頼の居城飯山城に迫った。
積雪のため信越国境が封鎖されている時期であり、長尾方諸将の動揺を誘った。

4月18日、ようやく景虎は信濃へ出陣。
4月から6月にかけて北信濃の武田方の諸城を落とし、武田領深く侵攻し善光寺平奪回を図った。
しかしながら、武田軍は決戦を避け、景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。
7月、景虎は尼巌城を攻めるが失敗。
一方、武田軍の支隊が安曇郡の信越国境近くの小谷城(おたりじょう、長野県北安曇郡小谷村)を落とし、別方面から長尾軍を牽制する。

8月29日、両軍は上野原(長野県長野市上野)で交戦するが決定的な戦いではなく、戦線は膠着した。
景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げた。
晴信も10月には甲斐国へ帰国した。

京都では、征夷大将軍・足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国朽木谷へ逃れる事件が起きた。
義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送った。
晴信は、長尾氏との和睦の条件として、義輝に信濃守護職を要求した。
義輝はこれを許し、武田氏と長尾氏の和睦が実現した。
これにより、武田氏の信濃国支配が室町幕府により正当化されることになった。

永禄元年(1558年)、晴信は和睦を無視して北信濃へ出陣。
義輝は御内書を送り和睦無視を責めた。
しかしながら、晴信は「信濃守護の職責を果たすため他国の侵略と戦っている」と自らの正当性を主張して、逆に景虎を責めた。

一連の戦闘によって北信濃の武田氏勢力は拡大し、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地中野(善光寺平北部)を失って弱体化する。
このため、景虎は残る長尾方の北信濃国人衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。

第四次合戦

川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。
第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。

一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いである。
しかしながら、合戦の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語しかない。
そのため、本節では史料的な信頼性には欠けるが『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。
確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。
しかしながら、『妙法寺記』や武田氏、上杉氏の感状など、この合戦があったことを伝える信頼性の高い史料は残っており、この年にこの地で激戦があったことは確かである。
現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。

合戦の背景
天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。
永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。
景虎は征夷大将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。
永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。
関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。
北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。
永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた。

北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。
川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。
やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。
景虎は、相模国・鎌倉市の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。

関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。
そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。
同年8月、政虎は越後国を発向した。

合戦の経過

上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。
自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り善光寺平南部の妻女山に陣取った。
妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。
武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。

信玄は、24日に兵2万を率いて善光寺平西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。
なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。
実際には善光寺平南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。
これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。
そのまま睨み合いが続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。
謙信はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻める事も出来たが攻める事は無かった。
海津城を落とせば戦局は有利に進んだ筈だが落さなかった。
それには謙信の『義』という志が背景にあったのかも知れない。
しかし、どちらしろ、この海津城は戦局を上杉軍優勢に進めるきっかけとなっている。

更に睨み合いが続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。
政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信春に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。
山本勘助と馬場信春は、兵を二手に分ける、大規模な別働隊の編成を献策した。
この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。
これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。
(信玄の軍師として知名度の高い山本勘助だが、一般的なイメージは江戸期以降の創作物によるものである。
江戸期に広く読まれていた『甲陽軍鑑』でも、勘助について軍師という表現は用いていない。
戦後に発見された『市河文書』では伝令将校的な武士とも取れる記述がある。
しかしながら、有力な支配下豪族や他国の領主との外交においては、有力家臣を「取り次ぎ役」することは当時としては一般的であり、単なる伝令とするのは事実誤認との指摘もある。
評価はいまだ定まっていないが、武田家内においてしかるべき地位にあったことは、確かなようである。)

9月9日深夜、高坂昌信・馬場信春らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。
しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。
政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。
これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。
政虎は、甘粕景持に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。
政虎自身はこの間に、八幡原に布陣した。

10日午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は愕然とした。
政虎は、猛将・柿崎景家を先鋒に、車懸りの陣(車輪のスポークのように部隊を配置し、次々攻撃する陣形)で武田軍に襲いかかった。
武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野源五郎らが討死するなど、劣勢であった。

乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。
放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた政虎は床机(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけた。
信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも討ちもらした。
頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。
川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれている。
しかしながら、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。
信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、史実とは考えられていない。
ただし、盟友関係にあった関白・近衛前久に宛てて、合戦後に政虎が送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。

政虎に出し抜かれ、もぬけの空の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信春率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。
武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘糟隊を蹴散らし、昼前(午前12時頃)には八幡原に到着した。
予定よりかなり遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。
形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に退いた。
信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。
上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して、越後国に引き上げた。

この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられる。
互いに多数の死者を出した激戦となった。
信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。
『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。
合戦後の書状でも、双方が勝利を主張している。
ただ、武田軍は最高幹部級の副将武田信繁・諸角虎定が戦死しているのに対し、上杉軍の幹部に戦死者がいない(上杉軍では荒川長実・志田義時などが討ち取られている。)
このため、戦術的には上杉軍優勢で終わったとの見方もある(特に副将信繁の戦死は影を落とした。
一方上杉側はこの後もすぐに関東へ出兵している)。
いずれにせよ、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。
信玄側にも2通の感状が確認されているが、柴辻俊六を始め、主な研究者からは、文体や書体、筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると鑑定されている。

参戦武将

『甲陽軍鑑』などによる。
なお、小山田信茂については戦力や当時の情勢から判断して別動隊に参加していたと推測されているが、史料上確認ができていない。
『妙法寺記』に「郡内弥三郎殿は(中略)よこいれを成され候ひて」とあり、よこいれ=側面攻撃 をしたと言う記録が別働隊説の根拠とされることが多い。

第五次合戦

川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言う。
上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は川中島に出陣した。
しかしながら、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わった。

上杉輝虎は、関東へ連年出兵して北条氏康との戦いを続け、武田信玄は常に輝虎の背後を脅かしていた。
輝虎の信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓っている。

永禄7年(1564年)、飛騨国の三木良頼と江馬時盛の争いに、信玄が江馬氏を、輝虎が三木氏を支援して介入する。
8月、輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。
信玄は善光寺平南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。
10月になって、両軍は撤退して終わった。
以後、信玄は東海道や美濃国、上野国方面に向かって勢力を拡大し、輝虎は関東出兵に力を注だ。
このため、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。

一連の戦いの後も北信濃の支配権は武田氏が握っていた。
そのため、戦略的には武田氏の勝ちといえる。

戦後

永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁して大軍を率い、上洛を果たした。
同年11月、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河国に乱入。
永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれて以降、弱体化していた今川氏の領国はたちまち瓦解し、当主の今川氏真は逃亡した。
これに激怒した北条氏康は、駿河国へ出兵して武田軍と戦いになり、三国同盟は崩壊した。
そして時代は織田信長の台頭を巡る新たな局面に移ることになる。

武田信玄と上杉謙信の両者が病死した後も甲越両軍は川中島の領有を巡って争いが続いた。
やがて互いに織田信長という共通の敵を抱えるところとなる。
そのため、上杉景勝は武田勝頼の異母妹と婚を通じて和睦して甲越同盟を築き両軍の戦いに終止符は打たれた。
その後上杉軍は柴田勝家を主将に前田利家、佐々成政らからなる織田軍の攻勢を本能寺の変までしのいだものの、武田軍は織田本隊と徳川連合軍によって滅亡させられた。
武田家壊滅後の川中島は織田の家臣森長可によって支配されたが本能寺の変で後ろ盾を失い撤退する。
その後は上杉、徳川、北条三つ巴の草刈場と化して上杉景勝が一応の成果を収めた。
しかしながら、豊臣秀吉によって上杉家は会津米沢へ移封されて川中島の地域は徳川の勢力下となった。
一帯は戦乱や洪水で荒れ果てていた。
しかしながら、徳川政権により上田から海津城(松代)に移された真田氏は藩主は勿論、家臣団にとっても武田配下だった「御先祖様」活躍の地であるためもあって幕末まで戦跡は保護されたり語り継がれることとなった。

後年、天下統一をなした豊臣秀吉が川中島の地を訪れた。
人々は信玄と謙信の優れた軍略を称賛したが、秀吉は「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。

狭い川中島を巡る局地戦で、信玄と謙信が兵力と10年以上の時間を浪費したため、いたずらに信長の台頭を許す結果になったと、古来、多くの論者がこの戦いを評している。
それゆえに、信玄・謙信は、所詮は地方大名にすぎず、天下人となった信長、秀吉の方が器量は遥かに上であると断ずる作家や評論家は多い。

一方で、近年の論者には、双方にとって必要な戦いであったという見方もある。
すなわち、甲相駿三国同盟が戦略の大前提であった信玄にとって、後北条氏の敵対者であった謙信との対決は必然であり(後に三国同盟を破棄して駿河国へ乱入した信玄は孤立して厳しい戦略状況に陥っている)、謙信にとっても信玄の北信濃領有を易々と許せば、高梨家のみならず本国の越後国自体が危機に陥りかねないことから、両者の衝突は必然であったとするものである。

両軍の兵力
江戸時代の幕府の顧問僧であった天海の目撃情報などに基づく。

異説

川中島の戦いにおける記録の中には、周知されているのとは別の説が存在する。

川中島の戦いは、戦を行う理由として、武田氏、長尾氏両氏が内乱を起こしかねない臣下に対して求心力を高めるためのパフォーマンスのようなものだったとする説がある。
また、同盟関係の証明のため、武田が攻めざるを得なかった、という説もある。

古くから流布されている「啄木鳥の戦法」については、いくつかの異論や反論が存在する。
まず、妻女山の尾根の傾斜がきつく、馬が通るだけの余裕がないため、実際に挟み撃ちが可能かについて疑問が出されている。
そこで妻女山に陣をしいた上杉軍を取り囲んで兵糧攻めにしたところ、窮地を脱しようと上杉軍が全軍で武田軍本陣に突撃をかけたのではないかとする説が生まれた。
また、両軍ともに濃霧の中で行軍していて、本隊同士が期せずして遭遇して合戦になったという「予期せぬ遭遇説」もある。
この説は、当時の合戦にしては異常ともいえる死亡率の高さの説明にもなり、状況証拠などを分析により一定の信憑性があるとされる。
そもそも「啄木鳥の戦法」自体が「甲陽軍鑑」を唯一の出自としており、その「甲陽軍鑑」は史料性に疑問が持たれている。
したがって、引用には注意が必要とされている。
なお、「予期せぬ遭遇説」については日本放送協会の「その時歴史が動いた」で紹介された。

妻女山は戦術的に死地にあたり(兵を動かしにくく補給も困難で囲まれやすい)。
しかしながら、直江景綱・柿崎景家らが反対したにもかかわらず謙信はあえて陣を敷いたともいわれる。
稀有な戦術眼の持ち主である上杉謙信が川中島の地形を理解していなかったはずはないため、背水の陣を敷いたのではないかとの推測もある。

また、第四次川中島合戦に関して『浄興寺文書』(信州水内郡長沼にあった寺に伝わる文章、現在の浄興寺は場所が異なる)と言う文章に川中島合戦に関連する一節があり、そこには永禄4年9月28日、合戦の折に寺が戦火にあった旨の記述がある。
文章の真偽のほどは確定していない。
この記述が事実だとすると、9月10日の戦いで両軍共に全軍の2割に達する戦死者を出しながら、なおも長期間戦いを続けていたことになってしまう。
したがって、文書の日付か、合戦の日付か、戦死者数の記述のどれかが怪しい事になる。

その他
川中島ダービー
日本プロサッカーリーグのサッカークラブ、アルビレックス新潟とヴァンフォーレ甲府の試合は、それぞれ謙信と信玄にゆかりのある地をホームタウン(本拠地)としているため、現代版の川中島合戦として盛り上がる。
長野での初対決で武田・上杉両軍による甲冑武者パフォーマンスが行われ、以来定着した。
ちなみにダービーマッチとは本来、地元を同じくするチーム同士の試合をいうが、日本では因縁があったり特別盛り上がる試合を指すこともあり、川中島ダービーは後者。

[English Translation]