平民社 (Heiminsha (Commoners' company))

平民社(へいみんしゃ)は、1903年11月に、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水と堺利彦(枯川)が、非戦論の主張を貫くために朝報社を退社し、あらたに非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及をおこなうために開業した新聞社。
小島龍太郎や加藤時次郎、岩崎革也らが資金援助をおこなった。
形態は新聞社であったが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割を担い、事実上、社会主義協会 (1900年)とともに社会主義運動の中心組織であった。

平民社は、週刊『平民新聞』を発行し、同紙は、1903年11月15日発行の第1号から、1905年1月29日発行の第64号まで刊行された。

週刊『平民新聞』第1号(11月15日)には、「平民社同人」の署名のある「宣言」と、堺と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載されている。
「宣言」では、平民社が今後、「平民主義・社会主義・平和主義」を唱えていくことが述べられている。
この二つの文書は、1901年に幸徳らによって結成されながらも、ただちに禁止された社会民主党 (日本 1901年)の「社会民主党宣言書」の精神を引き継ぎ、その後の日本における社会主義運動に大きな影響を与えたものであった。

週刊『平民新聞』第53号(1904年11月13日)には、新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳で『共産党宣言』が訳載された。
翻訳はサミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳。
日本における最初の『共産党宣言』の翻訳であった。

週刊『平民新聞』は、第1面に英文欄を設け、アメリカ合衆国やイギリス、さらに日本にとっては敵国であるロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。
その成果のひとつは、戦争中の1904年8月にアムステルダムで開催された第二インターナショナルの第6回大会で、片山潜とロシア代表のゲオルギー・プレハーノフがともに副議長に選出されて会議場で握手を交わし、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認したことである。
この握手は、国際的連帯の成果として週刊『平民新聞』はもちろん、各国の社会主義陣営の機関誌等で報道された。

[English Translation]