庚午事変 (Kogo Jihen)
庚午事変(こうごじへん)は、1870年に当時の徳島藩淡路島洲本城下で洲本市在住の蜂須賀氏臣の武士が、家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。
稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。
経緯
徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、徳島本藩との様々な確執が以前よりあった。
幕末期、本藩側は佐幕派に対し稲田側では尊王派であり、稲田側の倒幕活動が活発化していくにつれ本藩側との対立をさらに深めていくようになった。
そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島本藩の家臣は士族とされた。
しかし、陪臣(徳島本藩の家臣)である稲田氏の家臣は卒族とされた事に稲田氏の家臣は納得できず、自分達の士族編入を徳島本藩に訴えかけた。
それが叶わないとみるや今度は洲本を中心に淡路を徳島本藩から分藩独立させて稲田氏を藩主とする稲田藩(洲本藩)の設立を目指す(そうすれば自分達は士族になる)ようになり、明治新政府にも独立を働きかけていくようになる。
稲田側は幕末時の活躍によりすぐ認められると思っていた。
稲田側こうした一連の行動に怒った本藩側の一部過激派藩士らが、明治3年5月13日_(旧暦)(1870年6月11日)、洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃した。
またその前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町(現:美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍。
これに対し稲田側は一切無抵抗でいた。
これによる稲田側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人。
他に投獄監禁された者は300人余り。
焼き払われた屋敷25棟。
政府は一部の激派だけの単独暴動なのか、藩庁が裏で激派を煽動していたりはしなかったか調査した。
少なくとも洲本では意欲的に緊急措置を怠った疑いがある。
そのような事実が少しでもあれば容赦なく蜂須賀茂韶を知事から罷免するつもりであった。
政府は版籍奉還後も藩主が藩知事となっているだけで、 旧体制と何ら変わらない。
中央集権化を推進していくうえで、この問題は是非とも克服してゆかねばならない。
だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねない。
結局、政府からの処分は、徳島藩側主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首(のちに藩知事の嘆願陳情で切腹になる)。
これは日本法制史上、最後の切腹刑となる。
八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。
藩知事や参事らも謹慎処分を受け、藩自体の取り潰しはなかったものの、洲本を含む津名郡は明治4年5月に兵庫県に編入されている。
稲田側に対しては、この事件を口実に北海道静内町と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。
この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢 (船山馨)』や、2005年1月公開の映画『北の零年』でも描かれている。
なお、洲本市立淡路文化史料館では、「庚午事変」のコーナーが常設展示され、事件当時の事を綴った稲田氏の家臣の手記などが展示されている。
この事件がなければ淡路島は今も徳島県であった可能性が高い。