建久七年の政変 (Coup of the seventh year of Kenkyu)
建久七年の政変(けんきゅうしちねんのせいへん)とは、建久7年(1196年)に起きた政変。
源頼朝は親幕派の九条兼実を朝廷での代弁者としていたが、娘の大姫 (源頼朝の娘)の後鳥羽天皇への入内に際し、既に院に九条任子を入内させていた九条兼実ではなく反兼実派で反幕派でもある源通親に相談した。
建久6年(1195年)、任子が天皇の皇女・昇子内親王を、通親の養子・源在子が為仁親王(のちの土御門天皇)を生んだ。
翌建久7年(1196年)の11月23日に中宮九条任子が後宮から退去させられ、同月25日関白九条兼実が罷免され、近衛基通が関白に、頼朝の妹・坊門姫を母とする一条高能が参議に、坊門姫の娘を妻とする西園寺公経が蔵人頭にそれぞれ任じられ、同月26日に天台座主慈円が籠居を命じられ、太政大臣藤原兼房 (太政大臣)も更迭された(慈円・兼房はともに兼実の同母弟)。
首謀者は、反兼実派の土御門通親と丹後局である。
二人は、後白河天皇の近臣であった。
つまり、頼朝に協力する気は元々なかったのではないかともいわれる。
一説に頼朝はこの策を聞かされても黙認していたという。
結果としては、大姫は翌年の建久8年(1197年)、入内計画が本格化する前に死去。
翌年には一条高能も病死し、頼朝は朝廷での代弁者を失う形となったまま正治元年(1199年)に死去。
土御門通親は実権を握るが、正治2年(1200年)、倒したはずの九条家の嫡男内大臣九条良経が左大臣に任じられ復活し、通親は建仁2年(1202年)死去。
通親の死の2ヵ月後、九条良経は摂政太政大臣に任じられた。