弥生時代 (Yayoi period)

弥生時代(やよいじだい)は、北海道・沖縄諸島を除く日本列島における時代区分の一つである。
縄文時代に後続し、古墳時代に先行する。
およそ紀元前10世紀中頃(ただしこの年代には異論もある)から3世紀中頃までにあたる時代の名称である。
具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代である。

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった。
(しかし、1994年、縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡(みなみみぞていせき)の土器片中からプラント・オパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が発見された。)
(さらに同県真庭市美甘(みかも)姫笹原の4500年前の土器にもプラントオパールが発表された。)
(2005年には岡山県灘崎町の縄文時代前期(約6000年前)の地層から大量のプラントオパールが見つかり、少なくとも約3500年前からすでに陸稲(熱帯ジャポニカ米)による稲作が行われていたとする学説が数多く発表された。)
(また水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたともいわれ、現在では弥生時代のはじまりと定義される稲作開始時期自体が確定できない状態である。)

名称

「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生 (文京区))の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する(なお、その後の都市化の進展などもあって正確な発見地は特定できなくなっている)。

当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。
なお余談だが、弥生時代の名称の起源となった、弥生町で出土した一群の土器は、現在の土器編年上では古墳時代前期に属するとの説が有力になりつつある。

概要

紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。

初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県曲り田遺跡、福岡県野多目遺跡などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されている。

弥生時代のはじまりである。

近年になって水稲である温帯ジャポニカは縄文晩期には導入されていたことが判明しつつある。
さらに近年の放射性炭素年代測定により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきている。

また、イネの伝来ルートについても従来は朝鮮ルートが有力視されていたが、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点、極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されないことなどの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつある(従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられている)。

紀元前10世紀後半に北部九州に伝わった水田稲作は、近畿南部に伝播するまでに300~400年、南関東までは実に700~800年ほど経過している。
昭和56年(1981)、弥生時代中期の遺跡が青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている。
その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本平、信濃川流域までひろがった。
中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかった。
その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということがあげられる。

水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえる。

田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠集落が掘削された。

道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。
青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。
また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になった。
このことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれた。

また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。
大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。

このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれた。
1世紀中頃に倭奴国王印が後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏 (三国)に朝貢し、倭の王であることを意味する金印を授けられた。

なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。

一方、南西諸島と樺太・北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。

併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。
南西諸島の歴史については、沖縄県の歴史他奄美諸島の歴史、先島諸島先島の歴史も参照のこと。

弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。

また、3世紀は海退期であり、海が退いていき沼や湖が干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった。

時期区分

弥生時代の始まりをいつの時点とすべきかは、諸説ある。

そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であった。
ところが、弥生式土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってきた。
すると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。

そのような中、福岡市板付遺跡において、夜臼式土器段階の水田遺構が発見された。
従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。

その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案された。

現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。
従って、弥生時代前期前半より以前に(夜臼式土器に代表されるような刻目突帯文土器と総称される一群の土器形式に示された)水稲農耕技術を伴う社会が(少なくとも北部九州地域には)成立していたとされる。
従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。
なお土器についた穀物圧痕の研究が進み、稲作技術は、遅くとも縄文時代後期までには列島にもたらされていたことが分かっている。

また、水稲農耕の導入についても北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまでさかのぼる可能性が指摘されているが、明確な遺構が発見されておらず、推測の域を出ない。

弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。
また、北部九州以外の地域では(先I~)I~Vの5(6)期に分ける方法もある。
(早期は先I期)前期はI期、中期はII~IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。
(早期は紀元前5世紀半ば頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。

最近になって、国立歴史民俗博物館の研究グループによる放射性炭素年代測定を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきた。
これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。

政治
戦乱の時代-環濠集落と高地性集落-
弥生時代は、前代(縄文時代)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとされる。

集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされた。
また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきた。

しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていない。

弥生時代前期の墓には、人骨の胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。

このように、多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。
以前には、こうした例は、戦闘の際に矢を何本も射込まれて、やっと倒れた人物と解釈されることが多く、「英雄」などとも呼ばれた。

しかしながら近年では、矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、むしろ埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納した、あるいは何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生け贄)となって胸に矢を射込まれたなどといった解釈も現れている。

また、北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。

こうした例は、従来、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈されてきた。
しかし、これも、武器の先端を折りとって副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないかといった反論がだされており、決着はついていない。

さらに、佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実は男性が戦闘に参加する機会が多いことを示すと考えられる。
甕棺内に頭部を除く全身が埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、しばしば戦闘の際に敵に頭部を切り取られた死者を連れ帰り、埋葬したものと理解されているが、このような例が本当に戦闘の犠牲者なのか、それとも何らかの儀礼的行為によるものなのかは実際のところは未だ論証されていない。

これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能である。

例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっているが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高い。
また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。

このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえる。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的である。

弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されている。
各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。

この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている。
なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。

環濠集落は、このような集団同士の争いに備えた防衛集落であったと考えられていた。

しかし、環濠集落の出現は、未だ戦闘の証拠がほとんどない弥生時代早期にさかのぼること(福岡県江辻遺跡、同那珂遺跡群など)、受傷人骨などの事例から戦乱が頻発したと考えられる前期後半~中期前半、特に中期初頭以降の北部九州ではむしろ環濠集落の事例は少ないこと、しばしば環濠を掘削する際に排出された土を利用して環濠の外側に盛り土をした痕跡のある事例が報告されているが、環濠の外側に盛り土をすることによって、外敵を有利にしてしまう(外敵は、盛り土を矢避けにしたり、盛り土の上から攻撃できる)ことなどから、環濠集落と戦乱とを直接的に関連づける、すなわち環濠集落を防衛集落と考える研究者は最近では少なくなってきている。
それよりは、環濠を掘削するという大規模な土木作業を共同で行うことによって共同体の結束を高めることが目的であったとか、環濠によって集団を囲い込むことによって集団意識を高めることが目的であったなどといった議論も提出されてきている。

しかしながら、弥生時代後期の高地性集落にしばしば環濠が掘削されていること、環濠内に逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる防御施設が設置された事例が認められる(愛知県朝日遺跡など)。
このことから、環濠自体に防御的な機能を持たせた事例が存在することもまた明らかであり、環濠の性格については地域・時期によって異なる意味づけを持たせるべきではないかといった主張は説得力がある。

一方、やはり古くから防衛集落と目されてきた集落の類型として、高地性集落が挙げられる。

高地性集落は、弥生時代中期後半~末(IV期後半~末)、そして後期中葉~末(V期中葉~末)に瀬戸内沿岸から大阪湾にかけて頻繁に見られるもので、弥生時代の一般的な集落からみて遙かに高い場所(平地からの比高差が50~300メートル以上)に営まれている集落のことである。

北部九州から北陸・中部・東海地域などといった広い範囲に分布する。
1970年代までは、畿内IV期がおおよそ北部九州の後期前半、畿内V期が後期後半に併行するとされ、実年代では紀元50年~250年ごろに比定されていた。

史書にある、いわゆる倭国大乱は、各種の史書に記載された年代がおおよそ2世紀後半~末に当たり、当時の年代観ではおおよそ畿内IV期末~V期前半期に該当していた。

このため、高地性集落の盛行は倭国大乱を原因とするものだという理解が主流であった。
しかし、畿内と九州の年代の併行関係が是正された。
倭国大乱は畿内V期後半~末に該当し、畿内IV期の高地性集落とは時代的に整合的でないとされ、これらは倭国大乱とは無関係とする意見が主流を占めるようになった。

このため、畿内IV期の高地性集落については、この時期に史書には記載されない戦乱があったという主張の他に、背景に戦乱を想定する必要はないという意見も見られるようになった。
特に後者の場合、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていない。

一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようである。

倭国大乱
魏志倭人伝には、卑弥呼が邪馬台国を治める以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。
また、後漢書東夷伝には、桓帝 (漢)・霊帝 (漢)の治世の間、倭国が多いに乱れたという記述がある(倭国大乱)。

近年、畿内の弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流になった。
この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方はほぼ定説となっている。

しかしながら、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。
倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。

邪馬台国畿内説では、北部九州勢力が大和へと移動したことを示す物的証拠は考古学的にはほとんど認められないのが実情である。
近年ではむしろ北部九州勢力が中心となって、鉄などの資源の入手や大陸からの舶載品などを全国に流通させていた物流システムを畿内勢力が再編成し直そうとして起こった戦いであったという。
一方、邪馬台国九州説では、弥生時代後期中葉以降に至っても瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また、鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かった。
倭国大乱の原因については、古事記等の西遷の記述と結びつけ、北部九州勢力が大和へと移動してヤマト朝廷を建てたとする。

地域勢力と大型墳丘墓の出現
時代が下るにつれ、大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられている。

首長層は弥生時代の墓制墳丘墓に葬られるようになった。
このことは身分差の出現を意味する。

弥生時代後期になると墓制の地域差が顕著となっていく。

近畿周辺では方形低墳丘墓がつくられ、山陰(出雲)から北陸にかけては弥生時代の墓制が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。

吉備地域
瀬戸内地方のなかでも吉備と呼ばれる岡山県と広島県東部の地域では、弥生時代後期の最大級の墳丘墓は、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(最大長約80メートル)である。
この地域では首長の葬送儀礼には、特殊器台形土器と特殊壺形土器が数多く使用された。
これらの土器は、吉備地方で発生し、美作国・備前国・備中国・備後国の地域に分布し、その発達の中心は、備中南部の平野であった。
そして、これらの地域の周辺地域では使用されていないのが特徴である。

山陰地域
中国山地の三次で発生したと推定され、出雲地域で発達した四隅突出型の墳丘墓(大きなものは約45メートル×約35メートル)が現れる。
これらは後の古墳時代に匹敵する土木建築を駆使したもので、その分布は山陰の出雲地方や北陸の能登半島にまで拡がっている。
出雲地域に存在する安来・西谷の両墳丘墓集積地には特殊器台形土器と特殊壺形土器し、出雲と吉備の両地域に同盟関係が生まれていたことを示していると考えられている。

これらの墓の特徴が寄り集まって後代の古墳(前方後円墳など)の形成につながったとされている。

弥生時代の地域勢力は、北部九州・吉備・山陰・近畿・三遠(東海)・関東の勢力に大別することができる。

時代の進行とともに連合していき、一つの勢力が出来ていった、と考えられる。

水田農耕発展のために農地の拡大と農具となる鉄の獲得のため、また地域間の交易をめぐる争いのために戦いが起こり時代が進行していった。
近畿では、環濠集落は、弥生前期末に現れ、中期以降に普及した。

人々の生活
道具類
弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器・鉄器・土器などに分けることができる。

石器には、縄文文化より伝わった打製石器を中心とする一群と、朝鮮半島無文土器文化より伝わった磨製石器の一群(大陸系磨製石器)がある。

打製石器は、石鏃やスクレイパー(削器・掻器)など、狩猟具(武器)・利器として用いられた。

石材としてはサヌカイトなどの安山岩系の岩石や黒曜石などが主に用いられ、縄文時代からの製作技術を受け継いで作られた。
一方、水稲農耕の流入とともに流入した大陸系磨製石器と呼ばれる石器群には、蛤刃磨製石斧や抉入片刃石斧といった工具や、石包丁や石鎌などといった農具がある。
水稲農耕技術の受容にともなう開墾や耕起、収穫に用いられる道具として、弥生時代になって新たに導入された道具類である。

青銅器は大陸から北部九州に伝えられた。
北部九州を中心とする地域では銅矛や銅剣・銅戈などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸がよく知られる。

北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始された。

一方銅鐸も半島から伝わったと考えられるが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわからない。
出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高い。

この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかる。

弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できる。

一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられる。
しかし、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌を内部につるして鳴らすものとして用いられたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられている。

また、鏡も弥生時代前期末に渡来し、中期末以降列島でも生産されるようになった。
墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられた。

このように、大型の青銅器は出現当初をのぞいてほとんどが祭祀に用いられるものであった。

このほかに鋤先などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられるが、大型の青銅器に比べて非常に少量である。

青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例がわずかに存在する)をのぞき、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産された。

青銅器の鋳型は、列島での初現期にあたる弥生時代前期末~中期前半期のものは主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られる。

中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになる。

平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられている。

一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられている。
しかし、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多い。

鉄器の初現は弥生時代早期とされ、弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化した。
後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。

鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器として、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。
出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現し、徐々に西日本一帯へと波及していった。
このほかに小刀(刀子)や鉄族、ノミ状工具などの存在が知られる。

ただし、この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。

弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている(ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためにはきわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。

北部九州、特に福岡市周辺地域では弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。

一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。

瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。

弥生時代後期には、玄界灘沿岸地域の遺跡から鉄器が大量に出てくるが、瀬戸内海沿岸各地方や近畿地方の遺跡からはごくわずかしか出てこない。
つまり玄界灘沿岸地域が鉄資源入手ルートを独占していたと推定されている。
それゆえに、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って戦争が起こったのではないかと考えられているが、今はまだ考古学的に立証することができない。
戦争が起こったと仮定すれば、近畿地方の大和勢力を中心に、広域の政治連合、例えば邪馬台国連合のような同盟ができあがっていたとことが想定されている。

土器は、弥生土器と呼ばれる、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。

縄文時代の縄文土器と比べて装飾が少ないとしばしばいわれる。
実際に装飾が少ないのは前期段階の土器と中期以降の西日本、特に北部九州の土器で、そのほかの地域・時代の土器にはしばしば多様な装飾が施される。

器種として主要なものに甕・壷・高坏があり、特に壷は縄文時代には一般化しなかった器種で、弥生時代になって米が主要な食糧となったため、貯蔵容器として定着したと理解されている。

土器の生産は集落ごとに行われ、集落ごとに自給自足によりまかなわれたと漠然と考えられているが、土器生産に関する遺構はほとんど事例がない。

最近、土器の焼成失敗品や、強い熱を受けたために器壁が薄くはじけるように割れた土器に注目して、大規模な集落で土器が集中的に生産された可能性が提起された。

また、土器の形態は地域性をきわめてよく表すため、その特徴に着目して他地域から搬入された可能性の高い土器と在地の土器とを峻別し、土器はこれまで思われていたよりもずっと多量に移動している可能性が指摘されている。

木器は主に食膳具や耕起具として使われた。
特に食膳具には漆を塗ったり細かな装飾を施すなどした優品が多いが、木器は腐るために良好な状態で出土する例はまれであり、詳しいことは未だよくわかっていない。

集落
弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものとして、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がある。

弥生時代の人々の住居には、主として竪穴住居が使われた。
平面形態は円形・方形が主流で、長方形・隅丸方形がそれに次ぐ位置を占めるが、地域によって多様な様相を示す。

早期の北部九州の住居には、縄文時代晩期の系譜を引き継ぐと考えられる平面方形のもののほかに、平面円形で中央に浅い皿状のくぼみを持ち、その両脇に小さな穴(柱穴か)を1対持つ特徴的な形態の住居が存在する。

この形態の円形住居は、同時期の朝鮮半島南部に広く分布している。
韓国忠清南道扶余郡松菊里遺跡で最初に注目されたことから、「松菊里型住居」ともよばれる(ただしこの名称は日本国内に限定して使用され、韓国考古学界ではむしろ「松菊里類型」という用語は住居跡の形態のみでなく土器や石器組成を含めた文化総体の名称として用いられることが一般的となっている)。

この松菊里型住居は、縄文時代後・晩期に西日本一帯でしばしば見られる円形プランの住居跡とともに、弥生時代前期から中期にかけて主流となる円形住居の祖形となったと考えられている。

弥生時代中期には、住居のプランは北部九州から西日本一帯で円形プランのものが卓越した。
一部に隅丸方形のものが見られる。
しかし、弥生時代後期にはいると西日本一帯で突如として平面プランが方形あるいは長方形へと変化し、次第に長方形へと統一されていく。

このほか、南部九州には「花弁型住居」と呼ばれる特異な平面プランの住居跡が分布した。
また兵庫県西部(播磨)地域には円形住居の床面中央部に1O(イチマル)土坑と呼ばれる特殊な遺構を持つ例が分布するなど、竪穴住居の形態には多様な地域性があり、注目される。

弥生時代の住居としては竪穴住居が出土例の大半を占めるが、このほかに平地式住居や掘立柱建物が想定される。

しかし、平地式住居の場合、生活面が削平されて(けずられて)しまうと生活の痕跡の大半が失われてしまうことから、住居として把握することがきわめて困難になってしまうため、これまでに把握された平地式住居の具体的な例はきわめて少ない。

また、掘立柱建物の場合後述する倉庫などとの区別が平面プランだけでは区別できないため、これも確実な住居の例は指摘されていない。

弥生時代には、主に米を貯蔵する倉庫が発達した。

早期には北部九州など一部の集落に掘立柱建物の倉庫が半島から伝播する。
しかし、前期までに地下式の倉庫が主流となり、掘立柱建物はほとんど見られなくなる。

地下式倉庫は円形のものが主流で、しばしば方形・長方形のものが見られる。
いずれも断面形態がフラスコ状を呈する。
これらは「貯蔵穴」と呼ばれる。

中期前半から中葉にかけて、掘立柱建物の倉庫が西日本一帯に展開する。

主な形態のものは柱間が1間×2間の規模のもので、これに1間×1間、1間×3間などのバリエーションが加わる。
この倉庫の様相は弥生時代を通じておおよそ変化はなく継続する。

弥生時代末から古墳時代初頭になると、2間×2間の総柱式の建物が出現し、これが主要な倉庫の形態となる。

墓制

弥生時代の墓制を示す用語として、支石墓、墳丘墓、周溝墓などといった埋葬施設の外部施設(上部構造)を示す区分と、甕棺墓、土壙墓、木棺墓、石棺墓などといった個々の埋葬施設本体の形状(下部構造)を示す区分がある。
いずれも、半島より渡来した要素と縄文文化より受け継いだ要素からなり、地域によって墓地の構成に様々な特色が見られる。

甕棺墓は、縄文時代後・晩期の埋甕習俗を下敷きとし、半島から伝来した壷形土器を埋葬容器として採用することにより成立したと考えられる。
北部九州弥生時代前~中期の代表的な墓制である。

前期前半段階には壷形土器をそのまま大型化した埋葬容器が使用される。
しかし、前期末までには埋葬専用容器として独自の形状を持ったものが成立し、その形状は壷形土器から甕形土器へと移行する。

中期には北部九州各地で少しずつその形態を変えながらも基本的には同じ形質的特徴を共有する成人用大型甕棺が北部九州に定着する。
それとともに、小児・乳幼児用に日常容器として使われる通常のサイズの甕形土器が埋葬容器として一般的に使われるようになり、甕棺墓制が確立する。

同時に、成人用大型甕棺に付属する蓋として、大型の鉢形土器が成立する。

甕棺墓は成人用甕棺が二つ合わせ口として組み合わされるものが一般的である。
このほかにこの鉢形の甕棺専用蓋が用いられるものも多く、また木製や石製の蓋が使われることも多い。

甕棺墓制は後期には急速に衰退して石蓋土壙墓・箱式石棺墓などに取って代わられた。
糸島地域のみで細々と継続するほかは旧甕棺墓制分布域で散発的に認められるのみとなり、古墳時代までには消滅する。
主たる分布域は北部九州地域でも筑前・筑後国・肥前東部域であり、この周辺地域では副次的な墓制として分布する。

木棺墓は、明確な出自は明らかになってはいないものの縄文文化には認められない墓制であることから半島から渡来した墓制と考えられている埋葬様式の一つである。

弥生時代の木棺墓の大半は組合式と呼ばれるもので、一般的には、底板・両側板・両小口板・蓋板の計6枚の板材を組み合わせ、あらかじめ掘削された土坑の中に棺を作るものである。

しばしば小口板などが石材に置き換わる例がある。

板材の組み合わせ方には、両側板が小口板を挟み込む形式のものと小口板が両側板を挟み込む形式のものとがある。
これが被葬者の出自集団を表すとする論があるが、証明されてはいない。

弥生時代前期末までには広く(北部九州をのぞく)西日本地域で主たる墓制として採用された。
特に畿内などでは土壙墓とともに中期の方形周溝墓の主体部として採用される。

弥生時代後期にはやはり石蓋土壙墓や箱式石棺墓などに取って代わられ、衰退する。
また、特殊な木棺墓として、丸木をくりぬいたものを上下に合わせたような特殊な形状をした木棺墓が特に弥生時代早期~前期前半期に特徴的に認められる。

土壙墓、特に素掘りの土壙墓は、縄文時代に一般的な墓制であり、弥生時代にもしばしば認められる墓制である。

しかし、縄文時代の土壙墓と弥生時代の(特に西日本の)土壙墓とはその形状に差があり、後者の方が全長が長い。
これは、埋葬姿勢の差異に由来するものと考えられる(縄文時代の土壙墓には屈葬が多く認められる一方、弥生時代の土壙墓は伸展葬が一般的である)。

弥生時代に新たに現れる土壙墓の形式の一つに、蓋を板石で覆う石蓋土壙墓があり、弥生時代後期に広く西日本全域で一般化する。
箱式石棺墓との関連性も考えられる(箱式石棺墓の蓋石以外を省略すると石蓋土壙墓となるため)。

中国との通交
中国との通交は渡来系弥生人に遡ることができる。

近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、山東省付近から来たと言われている。

更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることができるという調査結果がある。

稲作については、弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されている。

また近年、渡来系弥生人のDNAとお酒に弱い人の遺伝子の関連性が調査されている。

弥生時代の開始についてはかつて中国の春秋戦国時代の混乱と関連付ける考えがあった。
しかし弥生時代の開始年代を繰り上げる説に関連してこれを否定するか、あるいは殷から周への政変に関連付ける考えが検討されるようになった。

中国の史書では、後漢の『論衡』が周代の倭に関する知識を伝え、ついで漢書が前漢代のこととして倭人が多数の国に分かれて住んでおり、使節を送ってくると記している。

『後漢書』(南北朝時代、432年成立)には、57年に倭奴国王が後漢光武帝から漢委奴国王印を授かった。
また107年には倭国王帥升(または倭面土國王帥升)が生口を後漢へ献じたことが見える。

三国志の『魏志倭人伝』は、3世紀の倭国の状況を詳しく記し、邪馬台国の卑弥呼女王が統治していたことなどを伝えている。

中国の三国時代の呉と倭国が公的に交渉を行った文献は全くないが、遺物としては呉の年号を記す画文帯神獣鏡が二面存在する。

山梨県西八代郡市川三郷町(旧三珠町)の鳥居原塚古墳出土の赤烏(せきう)元年(238)の紀年銘をもつ。

兵庫県宝塚市安倉古墳(あくらこふん)出土の赤烏七年(244)の紀年銘をもつ。

弥生人の特徴

弥生人の特徴は、縄文人と比較すると、顔立ちは、面長で、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。
また、平均身長も162~163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。
これらの特徴は、現代日本人に近いという。
しかし、これらの人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。

近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。
長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。
さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。
ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。

つまり、最初に渡来人が来たと考えられている北部九州や大陸系渡来人が移住した可能性のある瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は少ない。

水田稲作の先進地帯でも、渡来系の人々ではなく、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。
絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。

現代の遺跡発掘調査
熊本県玉名市の両迫間日渡(りょうはざまひわたし)遺跡で、弥生時代後期のものとみられる水田跡の一部が発見された。

あぜ道(約幅1メートル)には土の流失を防ぐため多数の杭が打ち込まれており、足跡も約50カ所見つかっている。
あぜ道からは土器片や割れた木製の鍬などが見つかっている。
(熊本県教育委員会2005年11月11日発表)

[English Translation]