弾正台 (Danjodai (Board of Censors))
弾正台(だんじょうだい、彈正臺)は、下記のとおりである。
律令制下の日本の官制の一つ
明治時代の省庁の一つ
弾正台 (律令制)
律令体制時代の弾正台は監察・警察機構。
主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりであった。
左大臣以下の非違を摘発し、奏聞できた。
太政官の影響を受けないよう独立した機関として設置された。
だが、実際は太政官の因事管隷のもと、充分機能した例は少ない。
裁判権・警察権も刑部省・各官司が握っていた。
このため、非違を発見した場合でも直接逮捕・裁判する権限はない。
長官たる尹は従三位相当官で、親王が任ぜられることが多く弾正宮などど呼ばれた。
また大納言で兼帯することもあり、尹大納言などど言われた例がある。
なお、単に「弾正」と称した場合には弾正台の職員を指す。
嵯峨天皇時代に検非違使が創設されて以来、徐々に権限を奪われ有名無実化した。
なお織田信長は、尾張国半国守護代たる織田氏(清洲三奉行尾張国守護代家 / 織田大和守家とも)の分家で代々の当主が「弾正忠」を自称していた一族(清洲三奉行弾正忠家と称される)の出身である。
したがって信長自身も弾正忠を称している。
その他に弾正忠を称した武将としては戦国きっての梟雄・松永久秀や武田氏家臣の三弾正こと高坂昌信(逃げ弾正)、真田幸隆(攻め弾正)、保科正俊(槍弾正) などが特に知られている。
職員
四等官は下記のとおりである。
弾正尹(いん)
- 1人
大弼(だいひつ)
- 1人
少弼(しょうひつ)
- 1人
大忠(だいちゅう)
- 1人
少忠(しょうちゅう)
- 2人
大疏(だいそ)
- 1人
少疏(しょうそ)
- 2人
その下には台掌(だいしょう)、巡察弾正などの役も置かれた。
弾正台 (明治時代)
明治時代に入り、1869年(明治2年)に新政府の監察機関として改めて京都市に設置された。
設置に際しては、維新後、開国政策を進める新政府にとってもてあまし気味の存在となっていた過激尊皇攘夷派の不平分子らの懐柔を目的に、彼らを多く採用したいきさつがあった。
したがって新政府の改革政策に反対する方針を採ることもしばしばであったため、他の官庁との対立が深まった。
しかし監察機関であるがゆえに政府内での彼らの権限は小さかった。
主流派から外された弾正台の尊攘派は、府藩県・各省の非違を糾すという名目で、彼らの政敵たる開国派をやり玉に挙げる程度で満足しなければならなかった。
(なお当時大学大丞であった加藤弘之(後の東京大学綜理)も天長節儀式に欠席したことを弾正台に指弾され、謹慎処分を受けている)。
とりわけ横井小楠および大村益次郎の暗殺事件においては、取り締まるべき弾正台の古賀十郎や海江田信義が横井・大村の政策を非難した。
暗殺は彼らの自業自得であると主張、あまつさえ暗殺犯の減刑までも主張するに至った。
1870年(明治3年)5月、特に過激であった古賀のほか大巡察8名が人員削減を名目に免官となった。
これを機に政府による尊攘派切り捨てが本格化した。
そして弾正台自体も刑部省への統合が決定され、1871年(明治4年)司法省に統合された。
なお免官となった古賀は翌1872年、愛宕通旭らとともに新政府転覆のための挙兵を企てた(二卿事件)ことをもって梟首に処せられている。
「弾正」姓
佐渡に「弾正」姓を名乗る人々がいる。