征韓論 (Seikanron)

征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である。
ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言う説もある。

江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱えた。
なお、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。

明治維新後に対馬府中藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。
朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気おおいにあがっていた。
明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。
9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山広域市に遣り、明治5年1月には、宗義達を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。
朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。
ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。

明治6年6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。
参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。
後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。
いったんは、明治6年(1873年)8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、同年9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、同年10月に遣韓中止が決定された。
収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。
その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る士族反乱や自由民権運動の起点となった。

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