律令制 (Ritsuryo System)
律令制(りつりょうせい)は、主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度である。
律令体制や律令国家とも呼ばれることもある。
なお、律令制とは、律令に基づく制度を意味する用語であり、律令自体については律令の項を、律令の持つ法典としての性質などについては律令法の項を、それぞれ参照されたい。
基本理念
律令制とは、古代中国から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。
また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。
律令制では、王土王民および一君万民の理念のもと、人民(百姓)に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、税・労役・兵役が同じく一律平等に課せられていた。
さらに、こうした統一的な支配を遺漏なく実施するために、高度に体系的な法令、すなわち律令と格式が編纂され、律令格式に基づいた非常に精緻な官僚機構が構築されていた。
この官僚機構は、王土王民理念による人民統治を実現するための必要な権力装置であった。
基本制度
東アジアに特有の律令制は、各時代・各王朝ごとに異なる部分もあったが、王土王民と一君万民の理念を背景として、概して次の4つの制度が統治の根幹となっていた。
一律的に耕作地を班給する土地制度
中国では均田制、日本では班田収授法(班田制)として施行された。
王土王民思想を最も反映していたのがこの土地制度である。
王が自らの支配する土地を、自らが支配する人民(百姓)へ直接(中間支配者である豪族を介さずに)班給するというものであり、儒教的な理想を多分に含んでいた。
中国では、土地の班給よりも租税の確保が重視されていたが、日本では土地の班給が重視されていた。
個人を課税対象とする体系的な租税制度
中国や日本では租庸調制として施行された。
人民は耕作地班給の代償として納税義務を負った。
土地の班給が人民一人一人に対して行われたので、課税も個人に対してなされた。
これは、律令国家による人民支配が非常に徹底していたことを物語っている。
また、課税は恣意性の介入を排除して、誰に対しても同じように一律に行われた。
一律的に兵役が課せられる軍事制度
中国では府兵制、日本では軍団 (古代日本)として施行された。
耕作地班給の代償として兵役の義務を負ったのである。
ただし、唐代の江南では兵役がほぼ免除されていたり、日本では東国(関東地方)ばかりが防人の兵役義務を負っていたなど、必ずしも一律的に兵役が課されていないという実態があった。
人民を把握するための地方行政制度
中国では郷里制、日本では令制国郡里制を採用した。
支配を貫徹するために、末端の近くまで官僚が体系的に配置されていた。
この制度の下で、班給・課税・徴兵の台帳となる戸籍・計帳の作成が可能となった。
逆に言えば、戸籍・計帳の作成によって、上記の三制度の実施が可能となったのである。
以上の4制度を漏れなく実施するために、律令国家は、非常に精緻な律令法典と、それに基づいた高度に体系化された官僚制を必要とした。
律令法典
社会規範を規定する刑法的な律と社会制度を規定する行政法的な令が中心的な位置を占め、律令の不足を補う改正法としての格および律令と格の施行細則としての性格を持つ式が一つの法体系、即ち律令法典を構成していた。
律令法典は、法を統治の基礎に置く法家の思想を背景としていた。
官僚制
天子の意思命令を確実に具現化するため、各官庁と官僚の責任と任務を明確に区分し、精密に規定された階級に従って、命令を実行に移していく官僚制が、高度な体系の下に構築された。
各官庁内では、任務や責任の重さによって、官吏を四段階に区分することを原則としていた。
これを四等官制という。
また、官僚を学力で登用する科挙と呼ばれる登用試験が発達する。
日本では蔭位という例外規定が設けられ、高位の貴族の子弟は自動的に官職が与えられたため、徹底はしなかったが、官人の登用試験としては存在した。
この他、中央と地方の情報伝達を遅滞なく行うための交通制度(駅伝制)なども、律令制を構成する制度として採用された。
上記のような国家体制を、総称して律令制という。
中国史上では、隋から唐にかけての王朝で顕著であり、周辺の東アジア諸国では7世紀後期~9世紀頃に、中国由来の制度として広く施行された。
中国でも周辺の東アジア諸国でも、10世紀以後、上記のような律令制は死滅もしくは形骸化したが、その後も法形態としての律令は、中国や日本やベトナムなどで存続し続けた。
略史
律令制の祖形は、古く秦・前漢期まで遡るともいわれているが、厳密に言えば、律令制は中国の魏晋南北朝時代において出現し、徐々に形成されていった。
後漢末期から戦乱の時代が長く続き、中国の社会は混乱を極め、ほとんど崩壊に至っていた。
こうした社会の再建のため、魏 (三国)に続く諸王朝は、王土王民の理念による統治を指向するようになったのである。
魏は、戦乱によって耕作者がいなくなった田地を人民に支給して軍糧を徴収する屯田制と、兵役義務を持つのは兵戸であり他の一般戸と区別する兵戸制を採用していた。
また、税制としては、土地面積ごとに一定額の田租を賦課する定額田租と、戸ごとに物納を課する戸調を行っていた。
これらの制度は、その後の諸王朝も継承してゆき、律令制の基礎を形成することとなった。
魏の次の西晋は、土地制度は占田・課田制を新たに布き、兵制・税制は前代の兵戸制・戸調制を概ね継承した。
西晋の268年には泰始律令が制定され、これが最初の律令法典だとされている。
その後の五胡十六国時代を経て、中国北部を統一して北朝最初の王朝となった北魏は、律令制の形成に大きく貢献した。
北魏はまず、人民を体系的に支配するために三長制という地方行政制度を実施した。
これにより、租税の徴収や戸籍の作成を一律的に行うことができるようになった。
第6代皇帝の孝文帝は、三長制の成果を前提として、均田制と均賦制を実施した。
これは、一律に耕作地を支給し一律の基準で徴税を行うというもので、これにより律令制の基礎形成が完了したとされている。
なお、均賦制は夫婦に対して課税することとしていたため、課税単位の中心が戸単位から夫婦単位へと移行した。
北魏の次の西魏では、兵戸制に代わって府兵制という兵農一致を原則とする新たな兵制が生まれ、その次の北周は、儒教教典の周礼に基づいて三省六部の官制を整備し、租庸調と呼ばれる税制を開始した。
その後の北朝の諸王朝もまた、これらの制度を継承した。
律令制の形成は北朝を主舞台としていたのである。
北朝はこれらの制度を背景に国力を増強していき、次第に南朝を圧迫していった。
589年、隋は約270年ぶりに中国統一を果たした。
中国統一に先立つ581年に隋の楊堅は開皇律令を制定しているが、非常に体系的な内容を有しており、これにより律令制が完成したとされている。
律では、残虐な刑罰が廃止され、判りやすい内容へ簡素化されている。
官制も整備され三省六部や御史台が置かれ、官僚の登用に当たっては、幅広く門戸を開く科挙を始めた。
また均田制に於いて給付と課税の対象がそれまでの夫婦単位から男性個人単位(丁・中男)へと移行している。
これは、統一が為されたことにより給付対象が大幅に増え、そのことから来る土地不足が原因と思われる。
唐は、隋の律令制をほぼそのまま継承した。
律令制により国力の充実した唐は大帝国を築き上げ、東アジア諸国へ大きな影響を与えた。
その結果、東アジアの各国とも国力整備のために、唐の律令制を受容・摂取するようになった。
律令制を導入したのは、日本・新羅・渤海 (国)・吐谷渾・吐蕃王朝などが知られている。
これらの中には、必ずしも律令を制定していない国もあるが、いずれも唐律令の諸制度を多かれ少なかれ採用している。
中国の律令制の最盛期は、唐初~中期とされているが、必ずしも律令制が厳密に施行されていた訳ではなかった。
例えば、隋以前に均田制は北朝のみで施行されており、南朝では実施されていなかったので、唐初期において均田制は、おそらく華北を中心に施行されたにとどまっただろうと考えられている。
律令の枠内でも様々な名目で大土地所有が可能となっており、貴族層を中心に荘園が存在していたという事実もある。
また、唐中期には「江南地方が裕福になったのは、この地方の百姓が府兵の負担を免除されているからだ」とする記録もあり、府兵制の実施が徹底していなかったことが判明している。
それでも、唐中期までは律令制が統治機能を果たしていたが、8世紀中ごろの玄宗 (唐)期になると律令制が徐々に崩壊し始める。
まず府兵制が機能しなくなり、募兵を中心とする募兵制・節度使が導入された。
均田制の根幹となる百姓への耕作地の支給は、次第に実施されなくなり、それに伴って租庸調制が立ち行かなくなったため780年に税制は両税制へと移行した。
また、758年には困窮する国家財政の新たな財源として、塩と鉄の専売制が開始している。
律令制を運営する官僚制度も大きく変容し、律令に規定のない令外の官が非常に多数生まれていた。
こうした変化の背景には、地方の新興地主層による大土地所有や官僚進出の進展があった。
これにより、社会が大きく変動し始めたため、従来の統治制度である律令制が機能不全に陥り、崩壊に進んでいった。
唐後期になると、律令制と呼びうるものはほぼ消滅した。
唐律令制を摂取した東アジア諸国でも同様の状況が見られた。
いずれの国においても、8世紀後期から9世紀にかけての時期に、律令制は死滅あるいは形骸化していった。
隋・唐の律令制
隋の楊堅代には、『開皇律令』という律令が施行された。
次の煬帝の代には、その改正である『大業律令』が頒布されたが、『開皇律令』と大差がなかった。
唐の創業者である李淵は、『開皇律令』に基づいて『武徳律令』を頒布した。
その後も代々改正が加えられ、玄宗 (唐)朝の開元25年(737年)に頒布された『開元二十五年律令』は、東アジア諸国でも踏襲された。
但し、実情は律令の規定は現実社会とは乖離しつつあり、律令を補なう格式が重視されるようになった。
よって、律令の本文は早くに散逸したが、律については李林甫らによる注釈書『唐律疏義』が残り、令については、1933年、日本の中国法制史学者である仁井田陞が、和漢の典籍より逸文を輯逸し、『唐令拾遺』を著している。
略史
日本の律令制は、概して7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施された。
そのうち、8世紀初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされている。
6世紀末期から7世紀初頭の推古天皇の時代に、律令制を指向する動きがあったとする見解がある。
確にこの時期に冠位十二階の制定などの国制改革が行われたが、政治・社会体制を大きく変革するものではなかった。
当時の朝廷は、隋との交渉の中で、律令制とその基本理念を知る機会はあった(622年に帰国した遣隋使の恵日らが推古天皇に唐の律令制について報告している)が、それを実行に移す能力は未だ朝廷に備わっていなかった。
646年から孝徳天皇や天智天皇らが進めた政治改革、いわゆる大化の改新において、4つの施策方針が示された。
それらは、中国律令制の強い影響を受けたものである。
その内容は下記のとおりである。
豪族らの私有地を廃止すること
中央による統一的な地方統治制度を創設すること
戸籍・計帳・班田収授法を制定すること
租税制度を再編成すること
20世紀中後期頃までは、大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていたが、20世紀後期頃から、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明しており、必ずしも律令制史上の画期とは見なされなくなってきた。
例えば、改新の第一の方針は公地公民制を確立したものとして評価されてきたが、これは王土王民の理念を宣言したのみに過ぎず、改新時に公地公民制という制度は構築されなかったとする見解も有力となりつつある。
大化の改新は日本書紀に描かれるほどの画期的な改革ではなく、その後、改革への動 きは停滞したとする見解が広範な支持を集めているのである。
律令制導入の動きが本格化したのは、660年代に入ってからである。
660年の百済滅亡と、663年の百済復興戦争(白村江の戦い)での敗北により、唐・新羅との対立関係が決定的に悪化し、倭国朝廷は深刻な国際的危機に直面した。
そこで朝廷は、まず国防力の増強を図ることとした。
危機感を共有した支配階級は団結融和へと向かい、当時の天智天皇は豪族を再編成するとともに、官僚制を急速で整備するなど、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。
その結果、大王(天皇)へ権力が集中することになった。
この時期に編纂されたとされる近江令は、国制改革を進めていく個別法令群の総称だったと考えられている。
天智天皇による国制改革は全国に及んでおり、令制国と呼ばれる地方行政区画が形成されたのもこの時期である。
こうして、地方での人民支配が次第に深化していき、670年頃になると地方支配の浸透を背景に、日本史上最初の戸籍とされる古代の戸籍制度が作成された。
戸籍は、律令制の諸制度を実施するために必要な要素であり、最初の戸籍がこの時期に作成されているという事実は、班田収授制が大化の改新時に始まったのではなく、天智天皇以後に始まったことの反映であるとする見解が有力となっている。
天智天皇の死後、壬申の乱を経て政権を奪取した天武天皇は、軍事を政治の最優先項目に置き、専制的な政治を推進していった。
主要な政治ポストには従来の豪族ではなく諸皇子をあてて、その下で働く官僚たちの登用・考課・選叙など官人統制に関する法令を整備していった。
こうした流れは、体系的な律令法典の制定へと帰着することになり、681年に天武天皇は律令制定を命ずる詔を発出した。
天武天皇の生前に律令は完成しなかったが、689年の持統天皇の時代に令が完成・施行された。
これが飛鳥浄御原令である。
この令は、律令制の本格施行ではなく先駆的に施行したものと考えられている。
令原文が現存していないので、詳細は判明していないが、戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格がこの令により形成されたと考えられている。
その後の701年に、大宝律令が制定・施行された。
大宝律令は、日本史上最初の本格的律令法典であり、これにより日本の律令制が確立することとなった。
大宝律令の施行は、当時としても非常に画期的かつ歴史的な一大事業と受け止められており、律令施行とほぼ同時に、日本という国号と最初の制度的元号(大宝 (日本))が正式に定められた。
さらに、大宝律令の制定後まもなく、空前規模の都城である平城京が、9年の歳月で建設された。
これらの事実は、律令施行があたかも一つの王朝の創始(または国家建設)に擬せられていたことを表している。
律令編纂に中心的な役割を果たした藤原不比等は、その後、大納言・右大臣へ昇進し、政府の中枢において最大の権力者となり、藤原氏繁栄の基盤を作った。
律令制定に伴って、正史日本書紀の編纂、風土記の撰上、度量衡の制定、銭の鋳造などが行われた。
これらは律令に直接の根拠を持つものではないが、いずれも律令制に不可欠な構成要素であった。
大宝律令は、唐の永徽律令(えいき-、651年制定)をもとに作られた。
しかし、唐律令には、日本の社会情勢と適合しない箇所もあったため、多くの箇所で日本の国情に合わせた改変がなされている。
大宝律令制定後も、日本の国情に適合させるよう律令の撰修が続けられ、その成果が養老律令としてまとめられ、757年に施行された。
日本の律令制の最盛期は、8世紀初頭から8世紀中期・後期頃までとされている。
律令制が最も法令に則って実施されていたのが、この時期である。
ただし、この最盛期において律令制がどの程度まで徹底して施行されていたかについては議論が分かれている。
全国どこでも一律に律令通りの施政がなされることが律令制の理想ではあったが、それが貫徹されていたとは考えられていない。
律令の規定がかなりの程度で徹底実施されていたとする説や、依然として慣習法による統治もなされていたとする説など、様々な意見が出されている。
8世紀末頃になると、実効性が薄れて来た制度や、実際に運用されなくなった制度が見られるようになってきた。
これら制度の放置は、律令政府に対して財政的かつ人的な負担として重くのしかかっていた。
そのため、当時の桓武天皇はこうした制度を廃止し、別個の簡素かつ実効的な制度に置換するという大規模な行政改革を行った。
この改革は、律令制の再興を意図したものだったが、これにより律令制は大きく変質することとなった。
桓武天皇の時代には、長岡京・平安京への遷都や、対蝦夷戦争への積極的な遂行が実施された。
これらは、従来とは異質の統治体制を築こうとするものであり、律令制の再編成とする見解が多数派だが、桓武天皇の時代期をもって、律令制の終焉とする論者もいる。
その後、9世紀の前期から中期にかけて、律令制を再整備しようとする動きが活発となる。
律令の修正法である格(きゃく)と律令格の施行細則である式(しき)が、大宝律令の施行以後、多く残されていたが、820年にそれらを集成した弘仁格式が編纂された。
更に830年には、天長格式が撰修され、834年には令の官製逐条解説である『令義解』(りょうのぎげ)が施行された。
これらは、律令制の実質を維持していこうとする意思の表れだった。
しかし、律令制の弛緩、換言すれば別の統治体制への移行は、時代を追うたびに進展し、特に班田制の崩壊が著しかった。
こうした状況下で、870年前後に貞観格式が編纂・頒布されるとともに、868年には、律令条文の多様な解釈を集成した私的律令解説本の『令集解』(りょうのしゅうげ)が惟宗直本により記された。
10世紀には、最後の格式となる延喜式が編纂された。
しかし、律令制はこの時期にほぼ実態を失ってしまう。
多くの論者が、律令制は遅くとも10世紀末までに死滅したとしている。
律令制に基づく律令国家から請負統治に依拠する王朝国家(前期王朝国家)へ転換したとする見解が広範な支持を得ている。
ただし、律令制の死滅は、律令もしくは律令法の死滅を必ずしも意味していないので、律令の名目上の完全な終焉時期も重要であるが、制度としての律令制が崩壊したことに注意する必要がある。
11世紀以降も、律令の一部の条文は効力を保持していたからである。
そして、後醍醐天皇の建武の新政のように、律令制への回帰を求める動きも少なからず何度も出現していた。
しかしながら、律令制の根幹を成す王土王民思想や一君万民思想は武家政治の根幹を成す封建制とは相容れない存在であり、建武の新政は謂わば時代遅れの政治体制であったことは否めなくなっていた。
興味深い事に、律令の中には明治維新まで有効とされていたものもある。
例として太政官制があり、1885年(明治18年)に廃止されるまで続いた。
天皇
現存する養老律令には、天皇を規定する条文がない(大宝律令も同様と考えられている)。
この点から、天皇の地位は律令を超越したものとされている。
ただし、天皇が発する命令やその手続きについては、律令に規定があり、天皇の行為は律令の制約を受けていた。
更に唐制のように天皇が三省六部に相当する諸機関(二官八省)を直接統括しておらず、太政官が間に入る形となったために、太政官によってその権限が制約されていた。
また、皇位を生前譲位した者は太上天皇(上皇ともいう)と規定されていたが、これは中国律令にない独自の地位である。
律令上、太上天皇を天皇と同等の地位と解釈することが通例とされており、実際には太上天皇が天皇よりも上位とされることも多かった。
例えば、奈良時代の聖武天皇は、実質的に孝謙天皇よりも上位者とされていたし、平安後期に始まる院政も同様である。
詳しくは天皇、太上天皇の項を参照。
統治機構
律令に定める統治機構は、祭祀を所管する神祇官と、政務一般を統括する太政官の二官に大きく分けられていた。
中国律令では、祭祀所管庁が通常の官庁と同列に置かれていたが、日本律令は、神祇官を置くことで祭祀と政務を明確に分離した。
太政官の下には、実際の行政を担当する八省が置かれ、更に各省の下に個々の事務を分掌する職・寮・司・所などの諸官庁が置かれた。
この機構を総称して二官八省という。
太政官は、国政の意思決定を行う最も重要な機関であり、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言(後に中納言・参議が加わる)による議政官組織とそれを実務面で補佐する少納言・左右弁官局・外記局から構成されていた。
議政官は政務の重要な案件を審議し、最終的な裁可は天皇が行うとされていた。
重要でない案件の場合は、議政官の審議のみとされた。
このように議政官の任務は非常に重要であり、実質的に国政の意思決定を左右する組織であった。
天皇が裁可、もしくは議政官が審議して決裁された案件は、弁官に回付され、弁官が太政官符を作成して実行に移された。
弁官は国政中枢の実務を担っていたため、これも重要な官職と見られていた。
また、天皇が案件を提起する場合は、天皇から中務省へ命じて詔書が作成され、中務省が起案した詔書の文案は、外記局で点検を受けて天皇または弁官へ回付されており、外記局も重要な部署と認識されていた。
決裁された政策を実行するのが八省であり、左弁官と右弁官が四省ずつ担当していた。
以上に見る太政官の組織形態は、唐律令のそれを大きく改変したものである。
唐律令では、国政の意思決定機構は、天子の命を受けて政策を企画立案する中書省、中書の立案を審議する門下省、門下省が同意した政策を実行する尚書省から構成されていた。
このうち、中書省は天子とのつながりが強かったが、門下省は貴族層の意思を代表する機関であり、中書と門下の力が拮抗していた。
日本と比較してみると、中書省が中務省、門下省が議政官、尚書省が左右弁官およびその下の八省に当たる、日本では太政官が門下・尚書の両省を兼ねて更に中書省である中務省を指揮するなど強力な権限を有し、とりわけ門下省に当たる議政官、即ち貴族層の役割が非常に大きかったことが判る。
中央官制の詳細は日本の官制律令制(大宝律令)以後の項を参照。
地方統治は、中央に近い大和国・山城国・河内国・和泉国・摂津国の五国を畿内とし、その他を七つの道(どう)に区分した。
これを五畿七道という。
行政区画としては、令制国・郡・里(郷)の三層に分けて、国には国司、郡には郡司、里には里長(郷長)を置いた。
このうち、国司には中央から派遣されたが、郡司・里長はかつての在地首長である地域の豪族層が終身官として任命され、実質上自分の支配地域を行政単位として認められていた。
これについては、日本の律令制が、律令に基づく国家による人民支配と並行して、在地首長による氏族制的な人民支配をも内包していたとする見解がある。
重要な地域には特別の機関が置かれた。
首都である京域を管轄する左右京職、首都の外交窓口である難波を管轄する摂津職、国家の外交窓口である西海道を管轄する大宰府である。
中央と地方の情報伝達を迅速・円滑に行うために駅伝制が実施され、この駅伝制の下で、中央と国内各地を結ぶ道路網が整備されていた。
道路網は、幅員が広く長い直線区間を持つ古代日本のハイウェイであり、現代までその痕跡が残っている。
地方官制の詳細は古代日本の地方官制律令制下の地方官制の項を参照。
古代日本の道路網の詳細は、日本の古代道路の項を参照。
以上の統治機構に属する官僚は、それぞれ官職と位階が与えられていた。
官職とは官庁における役職で、押し並べて官庁内では役職が四階級、即ち長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)に区分されていた。
これを四等官制という。
また、位階とは官僚の序列を表す等級である。
律令において、全ての官職は相当する位階が定められており、これを官位相当制という。
例えば、弁官局の次官である左右中弁は正五位上と定められ、正五位上の者の中から左右中弁が選任されていたのである。
位階のうち五位以上の者には位田・位封・位禄・位分資人が給与されるなど多くの特権が与えられており、特別の身分階層を形成していた。
これを貴族という。
詳しくは、官位、位階の項を参照。
人民統治
日本の律令制においては、人民統治の基盤として、古代の戸籍制度(世帯=戸ごとに人民を詳細に記載登録したもの)と計帳(調・庸の税を徴収するための台帳)が作成され、毎年更新されていた。
国は、戸籍を基にして、一定の資格を持つ者に対し一律に同じ面積の田を口分田として班給し、その者が死ねば口分田を収公していた。
これを班田収授制や班田制という。
律令では、口分田は公地ではなく私地と規定されていた(これにより従来の公地公民の概念は否定されつつある)。
口分田の他の田には、五位以上の者へ班給された位田、天皇から特別に与えられた賜田、特に功績を残した者に与えられた功田、官職に応じて班給された職田、仏教寺院の維持運営にあてられた寺田、神社の維持運営にあてられた神田、以上の班給の残りの乗田があった。
また、宅地と園地も班給の対象とされたが、収公はされず、自由に売買できた。
田地の班給を受けた者は、原則として租庸調を納税する義務を負ったが、中には納付義務が免除される田地もあった。
田租の賦課対象となる田地を輸租田といい、田租が免除された田地を不輸租田というが、口分田・位田・賜田・功田・郡司への職田が輸租田とされ、郡司以外の職田・寺田・神田のみが不輸租とされた。
田租は国衙に納付され、国衙行政の財源となった。
当時、出挙という貸借制度があったが、国司や郡司は田租の稲を半ば強制的に百姓へ貸し付けて、利子の稲を得ていた。
これは公出挙または正税と呼ばれ、田租と並んで地方の貴重な財源となった。
百姓は、田租以外にも調・庸などを負担する義務が課せられていた。
調 (律令制)は、男性に賦課された物納税であり、絹や布、塩、紙、染料、海草、油などの地域の特産品が納められた。
調は中央の財源であり、直接、宮都に納付することとされていた。
そのため、百姓の中から運搬する者(運脚という)が選ばれ、都まで運送していった。
この時期に、初源的な運送業が発生していたとする見解もある。
庸は、元来、都での労役に従事することだったが、その代替として布、米、塩などを中央へ納付する内容となっていた。
雑徭は、国司の命に従って、国内の土木工事や政府機関での雑用に従事する労役義務である。
中国では雑徭とは別に差科と呼ばれる労役義務が存在しており、差科に対する雑徭の位置付けについては諸説がある。
また、労役には仕丁と雇役と呼ばれるものもあった。
(詳細はそれぞれの項目を参照のこと)
以上の租税負担のほか、百姓は兵役の義務も負っていた。
律令制における軍事制度の基本は軍団 (古代日本)制だった。
成年男性の中から徴兵され、3~4郡ごとに置かれた軍団に兵士として配属された。
軍団で訓練を受けた兵士は、中央たる畿内へ配転されて衛士として1年間、王城周辺の警備に当たった。
また、関東の兵士は、北九州に防人として3年間配属され、沿岸防備などに従事した。
班田制の詳細については、班田収授法の項を参照。
戸籍・計帳の詳細については、古代の戸籍制度の項を参照。
租・庸・調の詳細については、租庸調の項を参照。
軍事制度の詳細については、軍団 (古代日本)、防人の項を参照。
身分制度
日本の律令制における身分は、良民と賎民に大別される。
良民は、高級官僚である貴族を初め、下級官人、一般の百姓(公民と呼ばれることもあった)、雑色人(品部・雑戸という工芸技術を持つ半自由民)があった。
賎民は五色の賎と言われ、陵戸(天皇・皇族の陵墓を代々守る家系)、官戸(諸官庁に属し公用に従事)、公奴婢(官有の奴隷)、家人(貴族や有力者に属し雑用に従事)、私奴婢(私有の奴隷)があった。
賎民のうち、公奴婢と私奴婢は売買の対象とされるなど、奴隷として位置づけられていた。
このように、律令制下では奴隷制が存在していた。
評価
律令制の確立を以って、古代日本の国家建設がひとまず完了したと考えられている。
ただし、その国家建設は内発的なものではなく、唐を中心とする東アジアの国際関係の緊張を背景とする外発的な要因を主としていた。
そのため、国家建設の基盤となった律令制も、中国から移入されたものであり、日本独自の改変も多々あるが、基本的には中国の制度を日本で再現しようとする試みであった。
日本の律令制については、天皇による独断的な政治体制とする見解と、畿内の貴族らによる貴族共和的な政治体制とする見解が対立していた。
しかし、その後、天皇と貴族が相互に依存しながら運営して行く政治体制とする見解が出され、有力となっている。
日本の律令制社会は、戦前から戦後のある時期にかけて、奴隷が存在する点から奴隷制社会と目されていた。
これは、人類の歴史を原始社会→奴隷制社会→農奴制社会→…と類型化したヨーロッパ的な発展史観、なかんづくカール・マルクスの唯物史観に準拠した考え方であった。
特に、戦後の歴史学に強い影響を及ぼした唯物史観は、発展史観の度合いをさらに強め、古代アジアの社会はアジア的生産様式の中で総体的奴隷制度が行われたと考えていた。
当時の日本史学界の大きなテーマは、日本の歴史をいかにヨーロッパ的史観へ当てはめていくか、というものであり、そうした観点から律令制への評価が行われていたのである。
さらに、律令制に於ける人民統治の実態は単なる人民圧迫に基づいた搾取構造でしかなかった、という考えも存在している。
実際、人民の負担が増加傾向にあるにもかかわらず、肝心の支配層、すなわち貴族階級は贅沢を続け政治から遠ざかっていくようになる、と教えられる時期も有った。
摂関政治が軌道に乗り出した時期であった。
だが、この見解も日本の律令制社会をヨーロッパ的な発展史観に当て嵌め、欧米列強がかつて行った植民地支配の実態と重ね合わせているだけで、本末転倒な見方とする意見が現在では多くなってきている。
実際、墾田永年私財法は荘園制を発生させ律令制を崩壊に追いやった元凶のように論じられていたが、実態は人民の生活保障のために執られた土地政策の一環で、律令を否定するどころか律令の法目的を補強するものであった事が判明している。
また、防人制も人民負担の軽減から健児制に取って代わられ、農民徴用も九州地方出身者のみに限定している。
律令制社会の実態を観察すると、本質的な奴隷身分は奴婢などの賎民に限られており、社会全体に奴隷制が存在していなかったことが明らかになっている。
このことから、「律令制=奴隷制」、「律令制=独裁制に基づく搾取制」という考えが否定されていき、代わって百姓を隷属農民として見る隷農制という概念が提示されるようになった。
こうした例に見られるように、律令制に対する評価は、徐々にヨーロッパ的な視座ではなく、東アジア的な視座からの再評価が行われるようになっている。