御所千度参り (Gosho Sendo-mairi)
御所千度参り(ごしょせんどまいり)は、天明7年6月7日 (旧暦) (1787年7月21日)に発生した、京都御所の周囲を多数の人々が廻り、千度参りをした事件。
この御所千度参りは、天明7年6月7日 (旧暦)頃から始まった。
初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日 (旧暦)には3万人に達し、6月18日 (旧暦)頃には7万人に達したという。
御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内国や近江国、大阪市などから来た者もいたという。
京都は人であふれ、後桜町天皇からは3万個のりんごが配られた。
他にも、有栖川宮や一条家などでは茶が、九条家や鷹司家からは握り飯が配られた。
この事態を憂慮した光格天皇が京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。
これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。
そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。
これに対して幕府は米1,500俵を京都市民への放出を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
この背景には、天明の大飢饉や、同年4月に徳川家斉が征夷大将軍に就任した事から徳政を求める意味もあったと思われる。
また、朝廷の行動が実際の救済行動に結びついたことで、幕府の朝廷統制によって江戸時代を通じて忘れられかけていた朝廷の存在を民衆に再度思い起こさせる結果となり、尊王論の興隆の一因となった。