慶長丁銀 (Keicho- chogin (Silver oval coin))

慶長丁銀(けいちょうちょうぎん)とは江戸時代の初期、すなわち慶長6年(1601年)7月に鋳造開始された丁銀の一種で秤量銀貨である。
慶長丁銀および慶長丁銀慶長豆板銀を総称して慶長銀(けいちょうぎん)と呼ぶ。

また慶長大判、慶長小判、慶長小判慶長一分判と伴に慶長金銀(けいちょうきんぎん)と呼ぶ。

概要

表面には「(大黒天像)、常是」および「常是、寳」の極印が数箇所から十数箇所打たれている。
また大黒像がやや斜め向きであることから、正面を向いている正徳丁銀と区別される。
また「是」の文字の最終2画の足が長い。
また12面の大黒像を打った十二面大黒丁銀は江戸幕府への運上用あるいは祝儀用とされる。

初期のものは切遣いを想定しているため一般的に薄手であり、極印の打数が多く形状が多様で素朴なつくりであり、文字が小さい。
後期のものは上下に大黒印2箇所と両脇に6箇所、計8箇所の極印が打たれ、元禄丁銀の形式に近い。
慶長期は銀座 (歴史)へ年間16,000貫程度の寄銀があったのに対し、日本国内の産銀が減少した後の元禄7年(1694年)には銀座に納入された灰吹銀が1,973貫、買灰吹銀3,297の計5,090貫程度となっており、形式が規格化された後期のほうが産銀量に伴い現存数が少ない。

略史

慶長6年(1601年)5月、徳川家康は後藤庄右衛門(金座の後藤庄三郎光次と同一人物、または別人との二説あり)および摂津国平野区の豪商末吉勘兵衛の建議により、堺の湯浅作兵衛に大黒常是と名乗らせ、常是を長とする銀座を京都の伏見に設立し、慶長丁銀の鋳造が始まった(設立時期には諸説あり)。
慶長丁銀の発行に先立ち堺の南鐐座(なんりょうざ)職人らは、菊一文字印銀(きくいちもんじいんぎん)、夷一文字印銀(えびすいちもんじいんぎん)および括袴丁銀(くくりはかまちょうぎん)を手本として家康の上覧に供したところ、大黒像の極印を打った括袴丁銀が選定され、慶長丁銀の原型となったとされる。
また「大黒像」、「常是」、「寳」に加えて家紋の一覧沢瀉(おもだか)の極印が打たれた澤瀉丁銀(おもだかちょうぎん)は初期の試鋳貨幣的存在と考えられている。

この丁銀は銀に銅を加えた合金を鋳造した平たい「なまこ」型の銀塊に「常是」、「寳」の文字および「大黒像」の極印が打たれたものである。
量目(質量)は銀一枚すなわち四十三匁(約161グラム)を基準としたが、実際には20匁(約75グラム)から60匁(約225グラム)程度のものまで存在するなど不定であり、取引には天秤で量目を定めてから用いられた。

秤量銀貨の通貨単位は、安土桃山時代以前は銀拾両すなわち四十三匁を銀一枚とする単位を用いていたが、これは主として賞賜目的のものである。
元亀、天正年間頃から商取引に活発に銀貨が使用されるようになると、貫、匁の表記が多くなった。
江戸時代に入ると貫、匁の表記が主流となり、銀何匁(銀何貫)と表記されこれを銀目と称し、また秤量銀貨は商人の通貨であったことから、商品取引相場の多くは銀建であった。

このような秤量銀貨は取引の度に秤量するという煩雑さを伴うため、銀座および両替商で賞賜目的には銀一枚(43匁)、および商取引などには500匁毎にまとめ、和紙で包み封印をした、「包金銀」の形で取引に使用されるようになった。

丁銀および豆板銀は「上方の銀遣い」と呼ばれるように大坂を中心とする西日本はもとより北陸地方から東北地方の日本海側を中心に流通した。
これは徳川家康が通貨統一にあたり、以前から秤量銀貨が大坂を中心として商人に広く使用されている実情を踏まえ、この形態をそのまま継承し、慶長銀を豊臣秀頼の膝元である上方に流通させることにより、常に天下は徳川のものであることを知らしめ全国統一を円滑に進めるという、したたかな政略のひとつであった。
秤量銀貨が商人に広く受け入れられたのは、秤量により実質価値を定めることの合理性、「貫」、「匁」、「分(ふん)」を単位とする十進法の計算の利便性、また馬蹄銀などの銀錠(銀挺、灰吹銀と呼ばれる銀塊)を高額取引用通貨の中心とする中国との取引が盛んであったことなどが挙げられる。
また石見銀山を始めとして、生野銀山、因幡銀山、多田銀山、対馬銀山など多くの銀山が西日本に偏在し、また大坂銅吹所における荒銅からの絞銀(しぼりぎん)による灰吹銀の供給が潤沢であったこともその要因である。

幕府は、それまで流通していた古丁銀、極印銀などの領国貨幣に代え、慶長銀による秤量銀貨の統一を理想としたが、貿易対価の支払いによる多額に上る海外流出のため地方まで慶長銀が充分に行渡らず、通貨の統一には元禄銀の登場を待たねばならなかった。
17世紀前半はソーマ銀(佐摩、石見国)、ナギト銀(長門国)、セダ銀(佐渡国)およびタジマ銀(但馬国)等といわれる灰吹銀が多量に輸出され、幕府は慶長14年(1609年)令で良質の灰吹銀の輸出を原則禁止とし、決済は慶長丁銀で行うよう定め、その一方で不正な灰吹銀の密輸出が横行し、丁銀および灰吹銀の輸出高の比率は不明であるものの、当時世界有数の産出高を誇った石州銀などは、その多くが慶長銀に鋳造されて輸出されたことになる。

元禄10年(1697年)4月に幕府は11年(1698年)3月限りで慶長銀を通用停止とする触れを出したが、引換が進捗せず退蔵する者が多かったため、11年(1698年)1月に通用を12年(1699年)3月限りと改めたが、通用停止には至らなかった。
結局、通用停止は元文3年(1738年)4月末となった。

慶長豆板銀

慶長初期の丁銀は取引価格に応じて鏨(たがね)で切断して用いる切遣いが行われていたが、江戸幕府はこれを防止するため、元和 (日本)6年(1620年)から、0.1匁から10匁程度の丁銀と同品位である平たい粒状の豆板銀(小玉銀)の鋳造を始め、以後切遣いは禁止した。
この豆板銀は少量の量目調整用および、小額の取引用に使用され丁銀の補助的役割を果たした。

慶長豆板銀(けいちょうまめいたぎん)は慶長丁銀と同品位につくられ、「(大黒像)、常是」または「常是、寳」の極印が打たれたもので、丁銀に準じ大黒像はやや斜めを向いていた。
慶長豆板銀は変形したものが多い。
大型で大黒印が数ヶ所打たれたものも存在し、また両面に打たれた「両面大黒」は存在しないといわれたこともあるが、存在が確認されている。

慶長銀の品位

規定品位は銀80%(一割二分引き)、銅20%である。

江戸時代の貨幣の金および銀の含有率は、極秘事項とされ、民間での貨幣の分析は厳禁とされた。
しかし両替商にとって、この金銀含有量は大変重要な情報であり、密かに分析が行われ商人の知るところとなっていた。
銀品位の分析では試金石は役に立たないが、銀座の銀見役、両替商など熟練者は、表面の錆色、割れ目などに見られる共晶組織から品位を判断したという。

銀の含有率の表示は銀座における銀地金と慶長丁銀との引き換え比率で表示された。

たとえば当時の製錬技術で最高の上銀(純銀)とされた地金すなわち灰吹銀は、一割り増しの慶長丁銀で銀座に買い取られ、「一割入れ」と呼ばれた。
これを基準に慶長丁銀と同品位、すなわち80%の灰吹銀は1.1×0.800.88となり、0.88倍の量目の慶長丁銀で買い取られた。
これを「一割二分引き」の地金と呼ぶ。
この12%分が銀座の貨幣鋳造手数料にあたる。

明治時代、造幣局 (日本)により江戸時代の貨幣の分析が行われた。
慶長銀については以下の通りである。

金:0.20%
銀:79.19%
雑:20.61%

雑分はほとんどが銅であるが、少量の鉛、ビスマスなどを含む。

慶長銀の鋳造量

慶長期の貨幣(小判および丁銀)は「手前吹き」と称して、金銀細工師が自己責任で地金を入手し、貨幣の形に加工した上で、金座および銀座に納め、極印が打たれ発行される形式である。
さらに明暦の大火による『銀座書留』など記録史料焼失のため慶長小判銀の正確な鋳造量の記録は無い。

しかし、後に新井白石らの推定による貿易決済としての海外流出高と、元禄小判銀への吹替え(改鋳)高などから推定した数値によれば、丁銀および豆板銀の合計で120万貫(約4,500トン)である。

『月堂見聞集』では鋳造量を35万貫余(約1,310トン)としているが、慶長銀の海外流出高から考えて疑問である。

明暦の大火以降、万治2年(1659年)、江戸城三の丸の地で御金蔵の焼損金銀を用いて103,484貫753匁余の丁銀が鋳造された。

天領の銀山から上納された公儀灰吹銀を預り、丁銀を吹きたてた場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は鋳造高の3%とされ、残りは幕府に上納した。

[English Translation]