政教社 (Seikyo-sha)
政教社(せいきょうしゃ)は、計13名を同人として設立された言論団体・出版社である。
主として井上円了、三宅雪嶺、棚橋一郎、大内青巒、島地黙雷ら哲学館(現在の東洋大学の前身)グループと、志賀重昂、杉浦重剛ら東京英語学校(現在の日本学園中学・高等学校の前身)グループから成る。
概要
明治政府による偏重した欧化主義政策を批判する立場から「国粋主義」を標榜し、1888年4月に雑誌『日本人 (雑誌)』を創刊した。
同誌はその後、三宅雪嶺が編集の中心となった。
内藤湖南らも参加し、田岡嶺雲・幸徳秋水らもしばしば寄稿した。
1907年1月、陸羯南の発行していた新聞日本 (新聞)が経営難に陥り、陸羯南が社長を退いたことで社員の多くが新社長・伊藤欽亮の経営第一主義に反発し、羯南の盟友であった三宅の『日本人』に合流。
これにより『日本人』は『日本及日本人』と改題する。
政教社の『日本及び日本人』は、徳富蘇峰の民友社が発行した『国民の友』と対抗し、言論界を二分化するほどの人気を博した。
民友社は政府主導の鹿鳴館文化を貴族的欧化であると見なし、平民的欧化主義の立場から政府批判を繰り返していた。
また、には「女性日本人」を発刊し、世界における日本女性の立場を論じている。
政教社同人による社会への関わり方として、次の事例を挙げることができる。
井上円了による東洋大学(前述の哲学館(1887年創立)の後身)は、男子専門だった私立学校で、日本で初めて女子の入学を許可(1916年)し、さらに女性教員を世に送り出すなどした、最初の共学の私立大学である。
また、島地黙雷による女子文芸学舎(現在の千代田女学園の前身、1888年創立)は、仏教を基調とする女子教育の先駆であり、棚橋一郎が創立した東京高等女学校(現在の東京女子学園中学校・高等学校の前身、1903年創立)は、東京府下で最初の、普通科の私立高等女学校である。
関東大震災後の改組問題で雪嶺が退社したのちの政教社は、五百木良三・三井甲之ら日本主義者によって牛耳られるようになり、4月に解散した。