教興寺の戦い (Battle of Kyoko-ji Temple)

教興寺の戦い(きょうこうじのたたかい)は、永禄5年(1562年)5月19日、20日の両日に、河内国高安郡教興寺村(現在の大阪府八尾市教興寺)付近であった三好長慶と畠山高政との合戦。
別名、教興寺合戦。
戦国時代_(日本)における畿内での最大の会戦。

概要

三好政権と河内畠山氏が、畿内の覇権をめぐって争った一連の戦いの最終章。
三好政権は下克上で細川管領体制を崩壊させた新興勢力であった。
河内畠山氏は、細川氏と同族であり、同じく室町幕府三管領のひとつであり、長年細川氏と対立してきた旧勢力であった。
新興勢力の智将、三好長慶と旧勢力の勇将、畠山高政指揮による合戦であった。
互いの勢力の全てを結集して会戦で,三好長慶はこの戦いに勝利することで、畿内の旧勢力の抵抗を排除できた。
また、河内国、和泉国を勢力下におき、大和国、紀伊国へも勢力を浸透させることに成功したことで三好長慶は天下人となった。
しかし、この戦いの中で、一族の有力者であった三好政成、三好義賢などを失ったことから三好政権の前途に暗雲が見え隠れするようになった。

合戦前の状況

河内国の守護として畠山氏は室町時代の初期より君臨してきた。
だが、隣国摂津国をはじめ、阿波国や淡路国、讃岐国などの守護であった三好長慶によって圧迫されることが多かった。

また、畠山氏の当主、畠山高政は勇将ではあったが、家中の状況は戦国の風潮があり、家臣団の統制も困難を伴った。
その結果、隣国の戦国大名である三好長慶によって内政干渉を受けることも多かった。
家臣団筆頭である守護代を独自に決定することさえ三好長慶の干渉を受けることがあった。

1551年5月5日に守護代で、実質的に河内の国主といえた器量人の守護代遊佐長教が暗殺された。
すると河内国は混乱を極めたが、1552年には遊佐長教の一族で、河内国交野市の有力国人の安見氏の養子に入っていた安見宗房(直政)が遊佐長教を暗殺した萱振賢継などを討伐して台頭した。
この安見宗房が守護代となったが、守護の畠山高政と安見宗房が対立する。
1559年、畠山高政は有力国人を味方につけた安見宗房に対抗するために、三好長慶の援助を受けて、安見宗房に対抗した。

その際に、安見宗房は居城の飯盛山城を三好長慶に攻略され、飯盛山城は三好長慶の居城となった。
その後、1560年には畠山高政と安見宗房が和睦したが、それが三好長慶に畠山氏攻撃の口実とされた。
畠山高政は国人領主の統制を整え、安見宗房、湯川直光などの有力諸将を纏め上げ、三好長慶に対抗した。

1562年、そこへ六角義賢(承禎)から三好長慶挟撃の軍事同盟の提案がなされた。
その背後には、室町幕府の権威回復を謀る足利義輝などの思惑もあった。
新興勢力の三好氏に対して旧勢力の六角氏・畠山氏が反撃にでたといえる。

兵力

兵力的には久米田の戦いとはことなり、態勢を整えなおした三好方が優勢となった。
当初、畠山方が三好長慶の居城の飯盛山城を攻撃した時点では、畠山方の兵力が三好方を圧倒した。
だが、三好義興らが摂津国の国人や丹波の国人に檄を飛ばして終結させた。
そのため劣勢を挽回し、教興寺で両軍が対陣する時点では逆に三好方が優勢となっていた。
ただし、畠山方に参戦していた雑賀・根来衆の火縄銃4000丁が三好方の脅威であった。

指揮系統
指揮系統に関しては三好方が各部隊(各国人衆)の指揮官に一族を配置して、総大将三好長慶の命令が伝わりやすい編成となっていた。
それに対し、畠山方は国人衆の旗頭や独立した国人領主が各自で参加する編成であったために、全体の指揮系統が一元化されていない。
経過をみると、明らかに三好方が先攻し、それに対して畠山方が対応するという図式となっていた。
戦場で指揮系統が一元化されていた三好方は先手を取り、指揮系統が一元化できていなかった畠山方は後手に回ったと思われる。

三好方
三好長慶……総大将として飯盛山城に在城。

伊沢大和守……三好長慶の作戦を各部隊に伝達。
長慶の老臣。

三好義興……前線総大将として出陣。
長慶の嫡子。

松永久秀……前線副将・三好義興を補佐。

三好政康……摂津国人衆を指揮。
長慶の一門衆。

三好長逸……三好政康を補佐。

池田長正……摂津国人衆の旗頭。
三好政長の婿。

伊丹親興……摂津国人衆の旗頭。

三好康長……阿波国人衆を臨時で指揮。
長慶の叔父。

篠原長房……故三好義賢を補佐、臨時で三好康長を補佐。

十河存保……讃岐国人衆を指揮。
三好義賢の子。
長慶の甥。

香西元載……十河存保を補佐。

寒川元政……讃岐国人衆の旗頭
安富盛方……讃岐国人衆の旗頭
岩成友通……山城国人衆を指揮。
長慶の婿。

安宅冬康……前線で譜代・旗本衆と淡路国人衆を指揮。
長慶の弟。

松山新介……前線で譜代・旗本衆を指揮し、安宅冬康を補佐。

内藤宗勝……丹波国人衆を指揮。
前名は松永長頼。
松永久秀の弟。

畠山方
畠山高政……総大将として出陣。
河内・紀伊の守護。

湯川直光……湯川衆・紀州国人衆を指揮。
河内守護代。

遊佐高清……譜代・旗本衆を指揮。
元守護代の故遊佐長教の一族。

斎藤盛清……遊佐高清を補佐。

安見宗房……河内国人衆の旗頭でこれを指揮。

土橋種興……雑賀・根来衆・和泉国人衆を指揮。

鈴木重興……雑賀衆の旗頭。
土橋種興を補佐。

津田算正……根来衆の旗頭。
土橋種興を補佐。

筒井順政……大和国人衆の旗頭でこれを指揮。

澤房満……宇陀三将の一人。

秋山教家……宇陀三将の一人。

芳野民部大輔……宇陀三将の一人。

1562年5月19日の情勢

当日の天候は前日夜半より驟雨であったとの史料がある。
三好方は久米田の戦いで雑賀衆および根来衆の鉄砲で三好義賢を失ったことから、雨を待っていたと伝わる。

戦後の経過

三好方は勢いにまかせて大和国へ侵入し、畠山氏の与党を追討していった。
また、六角氏も畠山氏の敗北を知って近江国へ退却し、講和を図った。

旧勢力の畠山氏の勢力が瓦解し、六角氏も軍門に降ったため、三好氏の勢力が大きくなった。
畿内に三好氏に対抗する勢力はなくなり、この後、大和国、河内国が三好氏の支配下となった。
紀伊国の北部も三好氏の勢力が及ぶようになった。

[English Translation]