新貨条例 (New Currency Regulation)
新貨条例(しんかじょうれい)は、明治4年5月10日 (旧暦)(1871年6月17日)に制定された、近代日本最初の貨幣法である。
日本の貨幣単位として「円 (通貨)」を正式採用した。
1897年(明治30年)10月1日貨幣法の施行により廃止された。
明治初年の諸課題
明治維新後も新政府は、江戸時代の貨幣制度をほぼそのまま受け継いだが、中央集権的な国家を建設するためには、各藩が独自に発行していた藩札(さらにそれを受け継いだ府県札)の整理や、東日本の小判(計数貨幣)と西日本の丁銀(秤量貨幣)の統一なども課題として残されていた。
また、1両が4分、1分が4朱という一部4進法が用いられる貨幣体系も外国人からは分かりにくく、改善が求められていた。
また当時、国内外の金銀比価の差により、大量の金が国外へ流出していた上、さらに戊辰戦争による戦費や、殖産興業のために新政府は深刻な財政不足に陥っていた。
大量の予算を充足する目的から、会計事務掛由利公正(福井藩士。のち由利公正)が導入した不換紙幣太政官札(10両、5両、1両、1分、1朱の5種)が大量に発行され、政府貨幣の信用が著しく低下していた。
その価値は金正価100両に対し、太政官札120両から150両まで下落したという。
硬貨の鋳造技術も旧態依然の未熟なものであり、江戸時代以来、偽造金銀銭が多く流通しており、貿易決済にも用いられたため諸外国からの苦情が殺到。
貨幣の国家管理は急務といえた。
また方形の貨幣は流通に従って四隅が摩耗するなど、品質の低下が激しく、円形通貨の必要性も叫ばれた。
大隈主導の幣制改革
上記の矛盾を解決するため明治2年2月、外国官判事兼会計御用掛大隈重信の建白により、造幣局 (日本)が設立されることとなった。
三岡失脚後は大隈が幣制改革を主導することになる。
大隈は同年3月輔相三条実美に対し、通貨単位を両から円に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を方形ではなく円形とすることなどを建白し、了承された。
しかし、実際に新通貨「円」が施行されるまでは、この後2年の歳月を要することになる。
新貨幣生産を担うべき造幣局予定地の火災(明治2年11月)による設備の焼失や、市場に流通する偽金・不換紙幣の整理に時間を割かれたためである。
会計官副知事となった大隈は、とりあえず太政官札と準備中の新貨幣との交換を約束するとの布告を出して強制的に太政官札を通用させる一方、正金との引き替えを禁じる。
しかし、太政官札価値の下落はなおも続き、明治2年6月には正金100両に対し185両にまで低下した。
さらに大蔵大輔(のち民部大輔・参議を兼任)となった大隈は、外国から苦情が殺到していた贋造の旧二分金(1両の半分)の回収を急いだ。
11月には、それまで高い額面しか無かった太政官札に加え、便宜のため小額紙幣(2分、1分、2朱、1朱)を「民部省札」として発行、流通させた。
これらの努力により明治3年には、太政官札はほぼ正金と同価値にまで信用を回復する。
しかし今度は偽太政官札が流通し始めており、偽造が不可能なほど精細な紙幣の発行が急がれた。
大隈は北ドイツ連邦の会社に印刷を依頼し、明治通宝(新紙幣、ゲルマン札)の発行を開始した。
明治4年4月4日には大阪に設置された造幣寮が稼働開始。
最新式の鋳造機を香港から購入し、贋造が難しい近代的な貨幣鋳造が開始された。
本位貨幣として日本の金貨5種(20円、10円、5円、2円、1円)、一円銀貨1種(1円)、補助貨幣として)、日本の銀貨4種(50銭、20銭、10銭、5銭)、日本の補助貨幣4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行された。
明治4年12月より、旧貨幣(万延小判金・寛永通宝・天保通宝など)と新銭貨との交換が行われている。
紙幣に関しては、明治通宝が額面9種(100円、50円、10円、5円、2円、1円、半円、20銭、10銭)をもって発行された(のちに旧藩札や太政官札と交換されることになる)。
新貨条例の制定
造幣寮で新貨幣鋳造が始まったことにより、新たな貨幣制度の制定の準備が整ったが、金・銀どちらを本位貨幣にするかは、結論は出ていなかった。
上記のように幕末期以来大量の金が国外に流出していたため、金準備が不足していた。
また横浜市では、他の多くのアジア諸国と同様に「洋銀(メキシコドル)」での取引が常態化していたため、大隈としては金銀複本位制を考えていたが、当時アメリカ合衆国に出張中の大蔵少輔兼民部少輔伊藤博文の「現在、世界の大勢は金本位に向かいつつあり」との建言に基づき、金本位制の採用を決定する。
こうして、明治4年5月10日「新貨条例」が太政官から布告された。
貨幣の基準単位を「両」から「圓(円)」に切り替え(旧1両を新1円とする)る。
旧貨幣は漸次廃止する。
通貨の補助単位として「銭」「厘」を導入。
100銭1円、10厘1銭とし、10進法とする。
本位貨幣を金貨とし、1円金貨を原貨とする(金本位制)。
1円金貨の含有金を純金2分1.5グラムとする(1アメリカ合衆国ドルに相当する)。
これにより、旧1両が新1円となり、さらに1米ドルとも連動する分かりやすい体系となった。
なお、やはり伊藤の建議により、アメリカのナショナルバンク制が導入されることになり、翌年制定の国立銀行条例により設立された「国立銀行 (明治)」(名前は国立だが民営である)が紙幣の発行を担うことになった。
また、明治5年2月より旧藩札・太政官札・民部省札と新紙幣(明治通宝)の交換が開始され、明治12年までにはほぼ回収が終了した。
事実上の金銀複本位制
新貨条例は金本位制を制定したものであったが、実際には国内外の貨幣事情から、その後も金本位制は実現せず、事実上は金銀複本位制が実態となった。
伊藤の建議どおり当時欧米では金本位制が主流になりつつあったとはいえ、清をはじめアジア諸国は依然として銀主体の経済圏であり、また対外交易でも洋銀(メキシコドル銀貨)が通用していた。
そこでイギリス東洋銀行の助言により、本位貨幣である一円金貨とは別に便宜上、貿易用の一円銀貨(のち「貿易銀」と呼ばれる)を鋳造し、開港地に限り無制限通用を認めた。
このため新貨条例では金本位制をうたっていながら、実質的には金銀複本位制を採ったことになる。
実際、明治6年(1873年)頃から銀価格の下落が進むにつれ、金貨の国外流出はいっそう激しくなった。
明治8年(1875年)には、これまでメキシコドルに一致させてきた一円銀貨の品目(銀含有率)を米ドルの貿易銀貨と一致させることとし、正式に「貿易銀」と呼称し、事実上の本位貨幣として扱われることとなった(なお、新貨条例は「貨幣条例」と改称された)。
明治10年頃には市場では銀貨の流通量が金貨を上回るようになり、大蔵卿・大隈は金銀複本位制の導入を建議するにいたる。
明治11年には開港場だけでなく、国内での無制限通用も認められることとなった。
これにより名目上も完全に金銀複本位制に移行した。
しかしすでに明治9年の国立銀行条例改正により事実上不換紙幣の発行が認められるようになっており、c不換紙幣の増発が続いたため、インフレが急速に進行。
金銀の流出、および退蔵化がさらに進んだため、松方デフレ政策の登場となる。
明治十四年の政変により大隈が失脚した後、大蔵卿(明治17年より大蔵大臣)となった松方正義が主導した超緊縮財政、および明治15年(1882年)の日本銀行設立による紙幣発行独占により銀準備が回復し、明治18年(1885年)に銀本位制に移行した。
その後も金本位制は松方主導の下に研究が進められ、紆余曲折を経て日清戦争の賠償金を正価準備として充足するなどして、明治30年(1897年)にが制定され、ようやく導入されることになる(ただし、金平価を0.75グラム1円という旧来の2分の1の平価とした)。