日西関係史 (Nichisei Kankeishi)
日西関係史(にちせいかんけいし、にっせいかんけいし)とは、日本とスペインの関係についての歴史をさす。
概観
東回りでマカオの歴史にまで進出したポルトガルおよびポルトガル人とならんで、西回りで太平洋に進出マニラ・ガレオンを開拓しフィリピンの歴史を植民地としたスペイン帝国およびスペイン人は、16世紀半ば(戦国時代)に日本人が初めて接触したヨーロッパの国・ヨーロッパ人であった。
その後17世紀前半(江戸初期)にかけて、キリスト教の布教(キリシタン)と貿易(南蛮貿易)を通じて、日本とスペインの間には盛んな人物の往来が見られ、また衣食住を含む当時の日本の文化や世界観にも影響を与えた(南蛮文化)。
しかし、キリシタン禁教の強化と鎖国体制の完成によってこれらの関係は途絶し、幕末に至る。
幕末の開国を経て、明治初年に日本とスペインは国交を回復する。
しかし、明治以降の日本とスペインは、スペイン内戦~第二次世界大戦にかけての一時期を除き、政治・外交上の懸案も少ない代わりに関係や関心も希薄という状況が続き、現在に至っている。
近・現代の日本とスペインの関係は、むしろ文化・芸術・スポーツ面の関心や影響、往来が主であるといえる。
なお、以下の文中では必要に応じて、各時代においてスペインの領土ないし勢力圏であった諸地域(ラテンアメリカ諸国やフィリピン等)での出来事にも触れる場合がある。
初期の往来
16世紀の日本とスペインの間には、国家間関係が本格化する以前から人の往来が見られた。
16世紀半ばにゴア州、マラッカ、マカオ等にポルトガルが拠点を築き、同国の保護下にイエズス会のアジア布教が本格化する中で、同時期に東アジア・東南アジアの各地を行き来していた日本人と、イエズス会の布教活動に参加していたスペイン人宣教師が接触する機会が生じたのである。
この時期、日本国外でスペイン人と出会った日本人のうち最も重要な人物は、自身キリスト教の洗礼を受け、1549年のフランシスコ・ザビエル(ナバラ王国出身)一行の来日を手引きしたヤジロウである。
ザビエルの日本来航に随行したイエズス会士は、コスメ・デ・トーレス神父がバレンシア_(スペイン)、フアン・フェルナンデス (宣教師)修道士はコルドバの出身であり、日本へのキリスト教伝来という出来事はまた、スペイン人の日本への来航を記す出来事でもあった。
ザビエルは1551年に日本を離れるが、フェルナンデスは1567年に平戸市で、トーレスは1570年に天草の志岐(熊本県苓北町)で没している。
ザビエルの離日に同行した、薩摩出身の洗礼名鹿児島のベルナルドという青年はポルトガルからローマに向かう途中スペインに各地に立ち寄っている(彼はポルトガルに戻ったのち、1557年ごろコインブラで死去)。
また1580年から1640年までスペイン王がポルトガル王を兼ねたため(ポルトガルの歴史参照)、ポルトガル・イエズス会と密接な関係にある天正遣欧使節の一行も、ポルトガルから陸路スペインに入って各地を訪問、1584年11月にはマドリードでフェリペ2世に謁見している。
両国関係の本格化~途絶まで
1609年(慶長14年)には前スペイン領フィリピンの総督ドン・ロドリゴがヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ日本との関係)への帰任に際し海難で上総国岩和田村(現御宿町)に漂着し、1611年(慶長16年)にはセバスティアン・ビスカイノが答礼使として来日した。
田中勝介等の使節団はドン・ロドリゴの帰郷に同船しヌエバ・エスパーニャを訪問、セバスティアン・ビスカイノに同行し帰国した。
1613年(慶長18年)に、セバスティアン・ビスカイノの協力でサン・フアン・バウティスタ号を建造した仙台藩が、ルイス・ソテロや支倉常長等の慶長遣欧使節団をヌエバ・エスパーニャ経由でスペインに派遣し、常長等は1615年1月にマドリードでフェリペ3世 (スペイン王)に、同年11月にはバチカンでローマ教皇パウルス5世 (ローマ教皇) に謁見する。
しかし、その後江戸幕府はキリスト教の禁教政策を強化し、1624年(寛永元年)にはスペイン船の来航を禁止するに至った。