明治六年政変 (Meiji roku-nen no Seihen (Coups of 1873))
明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年(明治6年))は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。
当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。
征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。
経緯
そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。
王政復古 (日本)し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣した。
また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。
更に当時における日本大使館以て征韓を政府に決行させようとしていたとも言われる(これは西郷が板垣に宛てた書簡からうかがえる。
これを根拠に西郷は交渉よりも武力行使を前提にしていたとされ、教科書などではこれが定説となっている。
ただし板垣宛の書簡は板垣を説得するための方便に過ぎず、西郷の本意は交渉重視であったとの説もある)。
この西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋らであり、反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、大隈重信、大木喬任、黒田清隆らである。
岩倉使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、国内が急激な改革で混乱していたことは大久保らの態度を硬化させた。
大久保ら岩倉使節団の外遊組帰国以前の8月17日、一度は閣議で西郷を朝鮮へ全権大使として派遣することが決まったが、翌日この案を上奏された明治天皇は「外遊組帰国まで国家に関わる重要案件は決定しない」という取り決めを基に岩倉具視が帰国するまで待ち、岩倉と熟議した上で再度上奏するようにと、西郷派遣案を却下している(岩倉の帰国は9月17日)。
大久保は、説得に大院君が耳を貸すとは思えず西郷が朝鮮に行った場合必ず殺される(殺されずとも大院君が使節を拒否した場合は開戦の大義名分になってしまう)、そうなった場合結果的に朝鮮と開戦してしまうのではないかという危機感、当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球帰属問題(台湾出兵参照)、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えた。
10月14日-15日に開かれた閣議は紛糾したが、採決で同数になった結果、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府から抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。
反対(延期)派の参議である大久保、木戸、大隈、大木は辞表を提出、右大臣の岩倉も辞意を伝える。
後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった太政大臣の三条実美が10月17日に倒れ、人事不省に陥る。
太政官職制に基づき岩倉が太政大臣代理に就任すると、明治天皇の意思を拘束するためであった。
そして10月23日、岩倉は閣議決定の意見書とは別に「私的意見」として西郷派遣延期の意見書を提出。
結局この意見書が通り、西郷派遣は無期延期の幻となった。
閣議決定が工作により覆されたのである。
そして西郷は当日、板垣、後藤、江藤、副島は翌10月24日に辞表を提出。
10月25日に受理され、賛成派の参議5人は下野した。
また征韓論に賛成する軍人、下野した参議近衛都督の引継ぎを行わないまま帰国した法令違反で西郷を咎めるどころか、逆に西郷に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣・後藤に近い官僚・軍人が大量に辞職した。
この後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた山縣有朋と井上馨は西郷、江藤らの辞任後しばらくしてから公職に復帰を果たす。
この政変が士族反乱や自由民権運動の発端ともなった。
後日譚
ただし、これで征韓論争が終わった訳ではない。
なぜなら、朝鮮との国交問題そのものは未解決であること、伊地知正治のように征韓派でも政府に残留した者も存在すること、そして天皇の勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由も当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。
つまり、ロシアとの国境問題が解決した場合には、改めて朝鮮への遣使が行われるという解釈も成立する可能性があった。
そして、それは千島樺太交換条約の締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見を上げ始めたのである。
ところが、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための特使として外務省の担当官であった森山茂(後に外務少丞)が倭館に派遣され、朝鮮政府代表との交渉が行われることとなった。
1874年9月に開始された交渉は一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「九月協定」)して、一旦両国政府からの方針の了承を得た後で細部の交渉をまとめるというものであった。
ところが、日本側が一旦帰国した森山からの報告を受けた後に、大阪会議や佐賀の乱への対応で朝鮮問題が後回しにされて「九月協定」への了承を先延ばしにしているうちに、朝鮮では大院君側が巻き返しが図られて再び攘夷論が巻き起こったのである。
このため、翌1875年2月から始められた細部を詰めるための2次交渉は全く噛み合わない物になってしまった。
しかも交渉は双方の首都から離れた倭館のある釜山で開かれ、相手側政府の状況は勿論、担当者が自国政府の状況も十分把握できない状況下で交渉が行われたために相互ともに相手側が「九月協定」の合意内容を破ったと非難を始めて、6月には決裂した。
一方、日本政府と国内世論は士族反乱や立憲制確立を巡る議論に注目が移り、かつての征韓派も朝鮮問題への関心を失いつつあった。
このため、8月27日に森山特使に引上げを命じて当面様子見を行うことが決定したのである。
その直後に江華島事件が発生、日朝交渉は新たな段階を迎えることになる。
またこれにより、天皇の意思が政府の正式決定に勝るという前例が出来上がってしまった。
これの危険な点は、例えば天皇に取り入った者が天皇の名を借りて実状にそぐわない法令をだしても、そのまま施行されてしまうという危険性があるというように、天皇を個人的に手に入れた者が政策の意思決定が可能な点にある。
そして、西南戦争直後に形成された侍補を中心とする宮中保守派の台頭がその可能性を現実のものとした。
その危険性に気づいた伊藤博文らは大日本帝国憲法制定時に天皇の神格化を図り、「神棚に祭る」ことで第三者が容易に関与できないようにし、合法的に天皇権限を押さえ込んだ。