条約改正 (Revision of treaties)
条約改正(じょうやくかいせい)とは、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約を改正するための外交交渉をさす。
概説
江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ合衆国、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結ぶ。
五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある)内容であった。
この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになった。
江戸幕府が王政復古 (日本)により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を引き継いだが、戊辰戦争の終結によって明治政府が日本の正統な政府であることが諸外国に認められると、1869年2月4日(明治元年12月23日_(旧暦))に明治政府は江戸幕府が勅許を得ずに締結した条約には問題がある点を指摘し、将来的な条約改正の必要性を通知した。
この条約は1872年(明治5年)から改正交渉に入ることとなっていたため、1871年(明治4年)岩倉使節団が欧米に派遣された。
従来この使節派遣の目的は、条約改正の打診であったといわれてきたが、実情は国法や近代的社会制度の整備が遅れていることから、改正時期の延期を諸外国に求めるものであったという学説が一般的になってきている。
1878年(明治11年)には、外務卿寺島宗則が西南戦争後の財政難のため税権回復を中心に交渉し、駐米公使の吉田清成とアメリカのエバーツ国務長官との間で税権回復の新条約(吉田・エバーツ条約)を調印するが、イギリス及びドイツの反対と法権の優先を求める世論の反対で挫折する(アメリカとの条約は他国と同内容の条約を結ぶことが条件になっていたため、発効しなかった)。
1885年(明治18年)に太政官制度が廃止され内閣_(日本)制度が発足。
条約改正は明治憲法制定と同時並行で取り組まれ、伊藤博文内閣の外相井上馨は鹿鳴館に代表される欧化政策を行いつつ交渉を進めた。
1886年(明治19年)、井上は東京において諸外国の使節団と改正会議を行うが、井上案は関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示したため、政府内で農商務大臣谷干城や法律顧問ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらからの反対意見を受けた。
翌1887年(明治20年)、国民がこの案を知るところとなると、折からノルマントン号事件(1886年)で不平等条約の弊害が問題になっていたため、世論は激昂してこれを「国辱的な内容」と攻撃、全国的な民権運動が盛り上がった(三大事件建白運動)。
条約改正交渉は中止となり、井上は辞任した。
黒田清隆内閣の外相大隈重信は1888年(明治21年)に交渉を再開するが、外国人を大審院に任用するなどの譲歩案がイギリスのロンドンタイムズに掲載されて日本へも伝わると、世論からは激しい批判がわき上がった。
大隈は改正案に反対する右翼団体の団員から爆裂弾を投げつけられ右脚切断の重傷を負い、これが原因で黒田内閣は崩壊、改正交渉はまたしも挫折した。
しかし1888年11月30日には駐米公使兼駐メキシコ公使だった陸奥宗光が、メキシコ日本との関係との間にアジア以外の国とは初めての平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。
山縣有朋内閣で外相青木周蔵は法権の完全回復を目指して交渉を再開する。
この頃にはロシアの進出などの国際的状況においてイギリスの外交姿勢は軟化を示していたが、1891年(明治24年)の大津事件で青木が辞任に追い込まれた結果、中断を余儀なくされた。
第二次伊藤内閣で、メキシコとの間に平等条約締結を成功させた陸奥宗光が外相となり、駐英公使の青木周蔵を交渉に当たらせ、1894年(明治27年)の日清戦争直前、ロシア帝国の南下に危機感を募らせていた英国と日英通商航海条約の調印に成功し、治外法権制度を撤廃させた。
このことは後の日英同盟への布石となった。
条約改正が達成されるのは日露戦争において日本の国際的地位が高まった後のことである。
1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに条約改正が達成された。