東京奠都 (Tokyo Tento (transferring the capital))

東京奠都(とうきょうてんと)は、明治維新のとき江戸が東京とされたこと。
このとき都を移す遷都を避け、京都との複都制とされたため奠都(都を定めること)と称される。
また、天皇の2度目の東幸に伴ない政府(太政官)が東京に移されたことを「事実上の東京遷都」と言うこともある。

遷都の気運

幕末の京都は、大政奉還や王政復古 (日本)により、政治の中心地となっていったが、京都の新政府内部から、新たに天皇親政を行なうにあたって遷都を行おうという声があがっていた。
しかし、この時点では江戸の情勢が未だ安定しておらず、主に大坂がその地として意識されていた。

大久保利通の大坂遷都案

鳥羽・伏見の戦い直後の明治元年(慶応4年)1月17日(1868年2月10日)、参与・大久保利通は、総裁・有栖川宮熾仁親王に対して、天皇が石清水八幡宮に参詣し、続いて大坂行幸を行なって、その後も引き続き大坂に滞在することを提言した。
これにより、朝廷の旧習を一新して外交を進め、海軍や陸軍を整えることを図るとする。
さらに同年1月23日には、太政官の会議において浪華遷都(大坂遷都)の建白書を提出するに至った。
しかし、遷都を行えば千年の都である京都を放棄することとなるとして、これに抵抗の大きい公卿ら保守派の激しい反対を受け、同年1月26日に廃案となった。
続いて大久保は、副総裁・岩倉具視を通して、保守派にも受け入れられやすい親征のための一時的な大坂行幸を提案し、同年1月29日これが決定した。

大坂行幸と江戸城の開城

大坂行幸の発表により、これが遷都に繋がるのではないかと捉えた公家や宮中・京都市民から、反対の声が高まった。
そのため、太政官も同時に移すという当初の計画は取り下げられた。
明治元年3月21日(1868年4月13日)、天皇が京都を出発。
副総裁・三条実美ら1,655人をともない、同年3月23日に大坂の本願寺津村別院に到着、ここを行在所とした。
天皇は天保山で軍艦を観覧するなどして、40日余りの大坂滞在の後、同年閏4月8日京都に還幸した。

この間、遷都しなくても衰退の心配がない浪華(大坂)よりも、世界の大都市のひとつであり、帝都にしなければ市民が離散してさびれてしまう江戸のほうに遷都すべきだとする前島密による「江戸遷都論」が大久保に届けられた。
同年4月11日には江戸城が無傷で開城されるなど、注目が大坂から江戸に移っていった。

大木・江藤の東西両都案

明治元年(1868年)閏4月1日、大木喬任(軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出した。
これは、数千年王化の行き届かない東日本を治めるため江戸を東京とし、ここを拠点にして人心を捉えることが重要であるとし、ゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結ぶというものだった。
この意見も大久保が提案した「大坂行幸」と同じく、遷都ではないため保守派にも比較的受け入れられやすい案であった。

江戸に皇居を置き東京とするという構想は、江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』に既に現われており、これに影響を受けて大久保利通も東京奠都を建言したという。

徳川氏の移封と東京の誕生

明治元年(1868年)5月24日、徳川氏が江戸から駿府70万石に移されることが決まると、大木・江藤の東西両都案も決され、政府は同年6月19日、参与・木戸孝允と大木に江戸が帝都として適しているかの調査にあたらせた。
2人は有栖川宮・三条・大久保・江藤らと協議の上、同年7月7日に京都へ戻り、奠都が可能であることを報告した。
これを受けて同年7月17日、江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書が発せられた。
この詔書では、天皇が日本をひとつの家族として東西を同視するとし、江戸が東国で第一の大都市・要所であるため天皇がここで政治をみることと、そのために江戸を東京と称することが発表された。
保守派や京都市民への配慮から、東京奠都を明確にはしなかったものの、東西両都の方針通り東京が誕生した。

東幸と万機親裁の宣言

天皇は明治元年(1868年)8月27日、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行ない、同年9月20日に京都を出発して、東京に行幸した(東幸)。
岩倉、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3,300人にも及んだ。
天皇は同年10月13日に江戸城へ到着、江戸城はその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称された。
続いて同年10月17日には、天皇が皇国一体・東西同視のもと内外の政を自ら裁決することを宣言する詔を発した。
そして東京の市民はこの東幸を盛大に祝った。

早期還幸の慎重論

東幸に続いて京都への還幸となったが、この還幸にあたって三条は独り賛成せず、今すぐに京都に戻れば関東の人心を失するとして早々の還幸を牽制する意見書を提出した。
三条はこの中で、天皇に数千年も親しく恵みを受けてきた京都・大坂の人々の動揺と、徳川氏に300年恩恵を受けてきた関東の人々に恨みや失望を与えることの利害得失を比べ、関東の人心に京都・大坂の盛衰や国の興廃がかかっているのであり、京都・大坂を失っても地勢に優れる東京を失わなければ天下を失うことはないと述べた。

三条の意見により還幸の日が延びていたが、先帝(孝明天皇)の三年祭と立后の礼を行なう必要があるという岩倉の意見もあり、明治元年(1868年)12月8日、天皇はひとまず京都に還幸し同年12月22日に到着した。
この還幸にあたり、東京市民に不安を与えないよう再び東京に行幸することと、旧本丸跡に宮殿を造営することが発表された。

東京への再幸

明治2年(1869年)1月25日、東京への再度の行幸を前に岩倉は、天皇の意向を知らずに政府や民間で遷都があるかのように思っている者が少なからずいるために、京都や大坂の人々の動揺が大きくなっているとし、関東諸国は王化が行き届いていないため新政を施すための再幸である旨を十分に分からせるための諭令を出すよう求める建議を行なった。
また、政府内でも遷都論を唱えるものがいるとし、天皇の考えによる遷鼎(遷都)の沙汰もなく、臣下の身でこれを唱えることは決して承知しないと遷都論に釘をさした。

同年3月7日、翌年の3月には京都に戻り冬に大嘗祭を行なうこととして、三条らを従えて再び東京への行幸が行われた(2度目の東幸、再幸)。
天皇が同年3月28日東京城に入り、ここに滞在するため東京城を「皇城」と称することとされた。
このとき「天皇の東京滞在中」とした上で太政官が東京に移され、京都には留守官が設置された。
ついで同年10月24日には皇后も東京に移った。
こうしてこれ以降、天皇は東京を拠点に活動することになった。

天皇・皇后の東京への行幸啓のたびに、公卿・諸藩主・京都の政府役人・京都市民などから行幸啓の中止・反対の声があがり、政府は「これからも四方へ天皇陛下の行幸があるだろうが、京都は千有余年の帝城で大切に思っておられるから心配はいらない」とする諭告(『告諭大意』)を京都府から出させ、人心の動揺を鎮めることに努めた。
東京再幸の反対運動の騒動の際には、ときの情勢に乗じて名古屋遷都を画策するものまで現われた。

首都機能の移転

京都では京都御所を後に残して、明治4年(1871年)までに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が次々に廃され、日本の行政機関が消えていった。
また留守官は明治3年5月に京都府から宮中に移され、同年12月に京都の宮内省に合併、明治4年(1871年)8月23日には廃され、東京への首都機能の移転が行われた。

京都還幸の延期

明治3年(1870年)3月14日、東北の平定が未だに行き届かないこと、諸国の凶作、国費の欠乏など諸々の理由で京都への還幸を延期することが京都市民に発表された。
翌明治4年(1871年)3月になって、結局大嘗祭は東京で行うことが発表され、同年11月17日に東京で行なわれた。

こうして京都を都として残す形をとりつつ、江戸も東京として新たに都とされ、政治の中心地が東京となった江戸の地に再び戻ることとなった。

その後

明治5年5月(1872年6月) - 天皇が京都に立ち寄る際、「還幸」ではなく「行幸」とされる。

1873年(明治6年)5月 - 東京の皇城で火災。
赤坂離宮を仮皇居とする。

1877年(明治10年)2月 - 天皇が京都の皇居(京都御所)の保存・旧観維持を指示。

1888年(明治21年) - 東京で明治宮殿が完成。
以降「宮城」と称する。

1889年(明治22年) - 旧皇室典範で「即位の礼」と「大嘗祭」は京都で行うと規定。

1891年(明治24年) - 京都御所を京都皇宮と改称。

1909年(明治42年) - 登極令(昭和22年廃止)で大嘗祭の斎田は京都以東・以南を悠紀、以西・以北を主基の地方とされる。

1915年(大正4年) - 即位の礼、大嘗祭が京都で行われる。

1928年(昭和3年) - 即位の礼、大嘗祭が京都で行われる。

1947年(昭和22年) - 皇室典範で単に「即位の礼を行う」とし、大嘗祭と場所は規定されなかった。

1948年(昭和23年) - 東京の「宮城」の名称が廃され皇居と呼ばれる。
京都皇宮は京都御所と呼ばれる。

1990年(平成2年) - 即位の礼、大嘗祭が東京で行われる。

[English Translation]