東大寺の歴史 (History of Todai-ji Temple)
東大寺の歴史(とうだいじ の れきし)について、解説する。
東大寺は、奈良市にあり、現在では華厳宗の大本山の、奈良時代から続く歴史ある大寺院である。
奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像、るしゃなぶつ)があることで有名である。
概要
この寺は、創建当初から東大寺と呼ばれてきたわけではなく、「東大寺」の名がはじめて見えるのは、天平19年(747年)12月25日日付の正倉院文書のひとつ、『東大寺写経所解』(とうだいじしゃきょうしょのげ)である。
また同時期には、「東大之寺」という表記も散見される。
命名の由来は、平城宮の東に位置する官大寺、となろうが、はっきりしない。
この「東大寺」という名は、大仏の建立をしている間に、「自然発生的に出てきたもの」であると推測されている。
東大寺は、現在まで約千二百年の歴史でもって、寺内に留まらず、日本に大きく影響力を振るってきた。
平岡定海によれば、東大寺の歴史を見ていくとき、次の四つの視点があるという。
羅列すると、まず、政治史的立場、つぎに、宗教的立場、そして、寺院史的立場、最後に、美術史的立場、となる。
政治史的立場から見ると、東大寺は、鎮護国家の思いをこめられて創建され、二度の戦乱や羅災などで衰退の危機にあっては、王朝や幕府の力を借りつつも、勧進をするとこによって、その大伽藍を保ってきた。
東大寺の大衆 (仏教)の力は隣接する興福寺とともに大きなものがあり、平安時代から彼らの上洛は時の権力者の頭を悩ませ続けた。
それが戦争の火種となったこともある。
宗教的立場から見ると、東大寺は、前身寺院のひとつ、金鐘寺(こんしゅじ、などと呼ぶ、前身寺院で詳述)の古密教としての性格があった。
また、いわゆる南都六宗の教学、さらに平安時代以降は、天台宗、真言宗などが同居して「八宗兼学」と呼ばれながら、なかでも重視した華厳経|華厳経学の中心地とも見られ、その教えを体現する本尊の東大寺盧舎那仏像|盧舎那仏像でもって、時の権力者や、庶民からの信仰をあつめてきた。
寺院史的立場から見ると、東大寺は、荘園経営などで経済を保ち、保有する杣から切出した木材で伽藍の修繕をしている。
修繕は、創建を担当した造東大寺司の後釜である、造東大寺所の管轄だった。
しかし、平安時代中頃から僧一人一人の力が強くなると私僧房ばかりに目が行くようになって力がなくなると、組織を政所内部に組込んで修理所とし、荒廃が進んでいた堂宇の営繕に努めるようになった。
荘園は全国におよび、大修理の際には、一国全体を任されることもあり、既存の杣の山林資源が枯渇していたのを補った。
しかし、江戸時代にはいって、荘園が取上げられ寺請制度の一翼を担わなかったこともあって、衰退がすすみ、明治時代にはいると大きな勢力を誇っていた子院の東南院 (奈良市)も滅んだ。
浄土宗に属していたこともあったが、1886年に独立し、華厳宗の大本山となり、観光収入などで寺院経営を行っている。
美術史的立場から見ると、東大寺法華堂(三月堂、羂索堂)は、奈良時代から続く堂で(前身寺院にて詳述)、内部には奈良時代彫刻の優品が多く安置されている。
また、鎌倉時代の復興期には、重源に重用された慶派の仏師による彫像群が造られ、興福寺のとともに、大変に重要視されている。
前身寺院
東大寺創建前、当地には、金鐘寺、福寿寺、天地院(法蓮寺)などの寺々の存在が、確認されている。
このうち、金鐘寺と、福寿寺については文献研究や発掘調査による研究がすすんでいて、この二寺院が、後の東大寺とどういう関係にあったのか、調べられている。
金鐘寺は、金鐘山房、金鍾寺、金鷲寺、金熟寺と書かれることもある。
読みについても諸説あって、「こんしゅじ」、「こんじゅじ」と読まれたり、また、慣用的に、「きんしゅうじ」とも呼ばれ、この読みについては、東大寺内で特によく親しまれている。
金鐘寺は、天平5年(733年)、良弁によって建立された、という記述が『東大寺要録』にあるが、これについては現在、福山敏男の否定説が通説である。
また、喜田貞吉も、この『東大寺要録』の記述は「後の偽作説である」と述べている。
別の説が『続日本紀』に書かれていて、そこには、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた唯一の男子で皇太子となったが、神亀5年(728年)に夭逝した基王の菩提を弔うのを目的として、天武天皇の孫に当たる文室浄三が造山房司長官となって山房を建立した、というものである。
こちらの見方のほうが、有力視されている。
吉川真司と菱田哲郎は、丸山地区丸山西遺跡を調査、発掘し、金鐘寺の境内地であると推定した。
福寿寺の創建には、光明皇后が深く関っていると見られている。
創建年代については、栄原永遠男によってその名の初見であった正倉院文書の解釈がなされ、天平10年3月には建立の立案、もしくは工事がされたであろう、という推論がだされている。
福寿寺には、福寿寺写一切経所があった(正倉院文書天平13年閏3月)。
この写経所は、皇后宮職写経司が、寺内に移されてできたものである、と見られている。
この正倉院文書の記述から、工事の完成は、文書の日付の天平13年閏3月のことであろう。
境内の位置であるが、森郁夫は二月堂仏餉屋付近の発掘調査から、福寿寺の堂舎のひとつであったとされる阿弥陀堂の場所をここに求めた。
そこから、いまの二月堂のある上院地区にあったという見方が広く賛同を集めている。
そして、金鐘寺と福寿寺の二つの寺院がのちに統合され、大養徳国金光明寺(やまとのくに こんこうみょうじ)と呼ばれる大和国の国分寺となっていったのである。
これが、東大寺の直接の前身である。
国分寺建立の詔は、紫香楽宮から、天平13年(741年)2月14日に出されている。
ちなみに、大仏造立発願の詔が出たのは、同じく紫香楽宮の、この2年半後の天平15年(743年)10月15日のことである。
大養徳国金光明寺は、各国の国分寺の中では珍しく、新たに建立されたのではなく、明らかに前身となった寺院が認められていることになる。
統合の時期であるが、福寿寺一切経写経所の名が金光明寺一切経写経所と改名されたことが分かる文献もあり、天平14年7月頃と推測されている。
さて、この金光明寺の金堂は、一体どこにあったのであろうか。
いままでこの問題だけで論争がおこっていたが、近年注目されているのが、上原真人の法華堂(三月堂、羂索堂)金光明寺金堂説である。
上原は、法華堂に葺かれている瓦に着目して堂の創建年代を天平13年初夏から14年7月頃と見、この堂が福寿寺の金堂であり、さらには金光明寺の金堂にもなった、という説をだした。
吉川真司は、この説に不備、不自然な点があることを指摘し、また、福寿寺は金鐘寺に吸収されて合併した可能性から、金堂の推定地について他の候補をあげている。
金光明寺は前身寺院があるとはいえ、そのままの寺観だったわけではなく、大仏を本尊とする前から規模を大きくしていった。
他国の国分寺の整備主体が各国の政庁だったように、大養徳国でもそうであったとすると、問題は、大養徳国の行政主体となるべき国庁の実態が不明であることである。
この当時の大養徳国の政治の実態はよく分かっておらず、どう大養徳国金光明寺の建設計画に関っていたのか、疑問が残るところである。
『続日本紀』の天平15年の記述に、「別に大養徳国金光明寺に殊勝の会を設け奉りて、天下の摸(ためし)と為さむとす」とあって、大養徳国金光明寺が特別な扱いを受けていることを見ることもでき、大仏は別にしてこの国分寺が有力であったことが分かる。
もっとも、大和国の国分寺を、東大寺及びその前身寺院ではなく、現在の奈良県橿原市にある国分寺 (橿原市)(現在は浄土宗)に求める説(『大和志』(享保19年(1734年))など)もあり、歴史事典類でも大和国国分寺の場所については両説がある。
例えば、吉川弘文館『国史大辞典 (昭和時代)』の「国分寺」(執筆者井上薫 (歴史学者))は東大寺を大和国国分寺としているのに対し、角川書店『平安時代史事典』の「国分寺」(執筆者角田文衛)は国分寺を大和国国分寺としている。
大仏造立
東大寺の中心である大仏造立は天平17年からのことであるが、これは、国分寺建立とは別にあった計画である。
このふたつの大事業が東大寺で組合わさったのは、最初から意図されたことではない。
大仏造立計画のはじめは紫香楽宮からであるが、その背景にあったものとしては、いくつかのことが考えられる。
まず、天平9年(737年)に天然痘が大発生、流行し、老若男女貴賤を問わず、多くの者が倒れたことがある。
その被害者の中には、光明皇后の後ろ盾にもなり、政権を担っていた藤原四兄弟の、藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂も含まれていた。
このことから、光明皇后は聖武天皇へ、強く大仏建立を勧めたとされる。
また、聖武天皇が、当時盧舎那大仏のあった河内国大県郡智識寺を天平12年に訪ね、影響を大いに受けたという。
この智識寺は、名が表すとおり智識(同信集団)の勧進銭によってできた寺で、それは東大寺成立の過程にも反映された。
大仏造立発願の詔は、紫香楽宮から、この2年半後の天平15年(743年)10月15日に発せられた。
当初の計画では、離宮であった紫香楽宮近くの、一時期近江国国分寺にもされた甲賀寺に、大仏が置かれることになっていた。
この計画には、民衆の人気がありすぎて、一時期政権の悩みの種でもあった行基を起用、重用し、大仏造立計画は求心力をもった。
現在、紫香楽宮の遺跡は発掘をうけており、その結果、現在の信楽町大字黄瀬の宮町遺跡として知られるところに宮があって、史跡にも指定されている紫香楽宮址こそが、甲賀寺の跡であろう、と確定的に見られている。
それが、どういったわけか造立計画はとりやめとなり、天平17年(745年)、聖武天皇は恭仁京からの遷都を発表(とはいえ、この当時は、ほとんど紫香楽宮で行政が行われていたのであるが)、都を平城京へ復することとなった。
これには、頻発した地震や反対勢力の抵抗などの原因が指摘されているが、わざわざ建設半ばの大仏までも捨ててしまうほどの、肝腎の主因はよく分かっていない。
そして、大仏は、東大寺に造られることとなったのであった。
以上が、全くバラバラのものであった、大仏造立と大養徳国金光明寺建立という二つの計画が一つになったあらましである。
周防国長登の銅、陸奥国を国司として治めていた百済王敬福から贈られた鍍金用の金を材料にして、金光明寺造物所は大仏を鋳造をした。
大仏の開眼供養会は、天平勝宝4年(752年)4月9日 (旧暦)に催された。
このとき開眼の筆をとって導師をつとめたのが菩提僊那であり、この筆は正倉院に残っていて、後の、大仏の復興の際の開眼供養のときにも使用されることになる。
この筆には、五色の縷がつけられ、その大仏殿の外までにもひかれた長い糸に、我先に大仏に結縁しようと民衆は群がった。
貴賤老若男女問わず信仰をあつめた東大寺の力がよく伝わるエピソードである。
その一年前に、金堂(大仏殿)が落慶したことを『東大寺要録』は伝えるが、他の堂宇の整備計画が進む中で、その様な短期間に大仏殿が完成できるか、その工事が大規模なものであったことが予想できるだけに、疑問の残るところである。
果たして、計画からわずか七年での大仏開眼供養会の際、いかほどに造営計画はすすんでいたのか、その進捗の経過には、様々に推測がなされている。
当時の、平安時代末期に消失する前の大仏の様子は、後代、平安時代の作ではあるけれども、唯一『信貴山縁起』(絵巻、朝護孫子寺蔵)の絵からうかがい知ることができる。
この絵から、垂木や角木の木口にも金箔で荘厳された大仏殿の様子を見ることができる。
信貴山に住んでいた僧命連には尼僧の姉があって、これが信濃から弟に会うために大和へやって来た。
が、弟の詳しい所在が知れない。
尼僧は戒を受けたところである東大寺の大仏殿に籠った。
すると、大仏からお告げがあり、西南の紫雲たなびく山に命蓮がいる、と伝えた。
果たして姉は、弟に無事会うことができ、以降ふたりはともに暮らしたのだった、という物語である。
この尼僧の大仏殿に参籠する場面に、初代の大仏殿が描かれているのである。
戒壇院設立
失明するほどの艱難辛苦の末にやっと、鑑真が唐から難波にたどり着いたのは、大仏開眼の一年後の、天平勝宝5年(753年)のことである。
それまで正式の戒壇のなかった日本からの要請にこたえ来日したもので、鑑真は大仏殿西に戒壇院を設立し、聖武天皇や多くの僧に戒を授けた。
これまで、東大寺の僧といえば羂索堂衆だったところに、寺内の整備が完了する奈良時代の終りのころから、この戒壇院でも、鑑真の法脈を伝える僧が活動をはじめることとなった。
東大寺戒壇は、下野国の薬師寺や大宰府の観世音寺と三戒壇に数えられ、平安時代に作られ下野薬師寺の代りに発展していった延暦寺戒壇とともに多くの官僧を生み出していった。
このことは日本仏教に大きな影響を及ぼし、日本から大陸に渡った僧も一人前の比丘として扱われるようになった。
また、受戒してからの年数――つまり法臘(戒臘とも)は年功序列制の素となり、寺院内で身を立て、出世していくための「武器」として重視されるようになる。
教学の場として
東大寺は、六宗兼学の場として、世に広く知られるようになった。
六宗とはすなわち、法相宗(法性宗)、三論宗、倶舎宗(薩婆多宗)、成実宗、華厳宗(花厳宗)、律宗のことであり、すべて中国から起こり、伝来したものであった。
当時の宗というのは、教団というよりは、仏教教理の学派という方が近い。
だから、こういう兼学の場ができたのだ、ともいえる。
この様な兼学の形態は、南都の寺院では広く見られたものである。
この六宗兼学の場(後、真言宗、天台宗加わって八宗兼学の場)の性格は、現在の東大寺でも見られるところである。
この中でも重んじられたのが、本尊の大仏の性格が華厳経の教えに則ったものであることからも分かるように、華厳宗である。
平安時代と大衆の台頭
平安時代になると、東大寺の建物は痛出し、伽藍の荒廃に困るようになってきた。
伽藍が巨大で木造建築ゆえ、というのもそうだが、合せて、東大寺の寺内の自治力が下がってきたこともあった。
東大寺への真言宗の浸透は、この傾向を一層進めた。
つまり、僧ひとりひとりが貴族など権力者と結びついて加持祈祷、呪詛を行い、各人が所属する僧坊での私生活に重きが置かれるようになったのだ。
また、さらに僧侶、僧坊の個別化、分散化、世俗化がすすみ、一人ひとりが住居する私僧坊が発展する。
すると、東大寺全体の管理は、疎かになってしまう。
合せて、10世紀末頃には、造東大寺所(前造東大寺司)の知事僧も勤務を怠けるようになってきたため、東大寺は、南大門や羂索院双倉、大仏殿後戸などは、傷みに傷んで、倒壊寸前か、してしまった。
この風潮は、11世紀中頃にはいると、改められるようになってきた。
僧たちはこの境内の有様に危機感を覚え、改修に勤しんだ。
そのために、寺の財政を一本化し、また、造東大寺所を完全に傘下におき、組織を東大寺修理所に改めた。
この改組は、組織の規模を大きく小さくしたけれども、官の手を離れ、政所の傘下におさめたことで、逆に働きが良くなった。
この修造は、11世紀中頃から1160年代の南大門再建まで続き、境内の堂宇の多くが修理修造された。
永長元年(1096年)には朝廷からの命令もあり、さらに修繕が進んだ。
天永元年(1110年)からは、国の主催の下に、大仏殿の大改修も行い、前年には造東大寺司も復している(が、この大改修の後は、また寺主体の修造に戻った)。
この時代、世間からは、「ておのゝおとする所」(『大鏡』)と呼ばれたり、寺側もこれを受けて「東大寺の斧音絶えざる由、世を以つて伝へ申すところなり」と自らを表現している。
そしてこの大修造時代が、東大寺を日本の中世寺院へと脱皮させ、荘園経済に移行させたのだ、と新井孝重は説いている。
治承・寿永の乱と復興
戦いの詳細は、南都焼討も参照のこと。
治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵が勃発した。
後白河天皇院の子、以仁王は、平氏主導ですすめられた安徳天皇の即位に不満を持って、清和源氏の長老であった源頼政とともに謀反の計画をすすめていた。
しかし、準備の段階で謀略は発覚し、王は近江園城寺(三井寺)まで逃がれた。
王は、協力の呼びかけにこたえてくれた南都興福寺に下らんとしたが、その行く手を阻む平氏と戦い、終に討ち死にした。
この当時、たびたび上洛、強訴しようとする南都の大衆、僧兵の力は強く、平氏も南都北嶺の影響力に頭を悩ませていた。
この年には源氏との富士川の戦いでの大惨敗もあり、また畿内も騒がしいし、平氏は窮地へ追い詰められつつあった。
そこで、なにかとうるさい南都を討つことによって畿内の基盤を固めよう、ということになった。
それまで、北嶺と違い、朝廷からの直接の厚い保護もあって南都は一度も直接武力攻撃を受けることはなかった。
12月15日までに近江、伊賀、伊勢を平定した後、南都掃討の作戦は、実行されたのだった。
治承4年12月25日、平氏の長平清盛の長男である平重衡は南都へ向け兵を率いて出発した。
迎える僧兵を蹴散らした重衡の軍勢の主力は28日、ついに南都へ攻め入った。
重衡は田口成良を先兵とし、般若寺のある般若坂の守りを固める大衆の守りを突破、南都を焼討ちにし大勝した。
僧叡俊の作成した文書に、以下の記述がある(東大寺文書)。
「治承四年十二月廿八日、興福寺と官兵との合戦の間、官兵処々に放火、猛火次第に東大興福両寺に飛び移り、寺中寺外ことごとく消失す」と。
また、『平家物語』にも、長々と無残にも風にのった炎に崩れ行く堂舎仏像と炎にまかれて死ぬ人々の阿鼻叫喚の有様が描写されている。
のちに、南都の復興に大いに力を貸すことになる右大臣九条兼実は、この南都の被害を聞いて、絶句するほどであった(『玉葉』)。
この衰微し、まさしく風前の灯だった東大寺の復興にあたったのが、勧進の僧であった重源である。
その東大寺大勧進職による東大寺再建の過程は、三期に分けて解説される。
大仏の再造(第一期)、大仏殿の再建(第二期)、その他堂宇、仏像の工作(第三期)である。
重源は「支度第一」(『法然上人行状絵伝』)と呼ばれたその実務能力を発揮して、見事に東大寺再興をしたのだった。
当時の時代背景として、朝廷や鎌倉政権、奥州政権の相克、それに伴う戦乱、飢饉や地震、他の寺院の復興との競合があった。
その困難な中で、この勧進は、時代の救世となるものとして、民衆から大きく支持された。
同時代を舞台にした歌舞伎の演目、『勧進帳』も、この民衆の大仏への帰依を背景につくられている。
元々、重源は、東大寺と関係のない僧であった。
重源は、十代前半に醍醐寺で出家し、藤原師行の後援のもと、入南宋三度を自ら誇った経験豊かな漂白の聖であり、それまでも、高野新別所(専修往生院)を結んだことでも知られる。
養和元年、大勧進職に任ぜられたのは、齢も六十をすぎてからであった。
朝廷から役所は、造東大寺司と修理大仏司の二つが設けられた。
修理大仏司が新設されたのは、大仏の痛み具合、なかでも頭部の具合がひどく、特にあたらないといけなかったからである。
造東大寺司の長官は、藤原兼光(その後造興福寺長官に)、後に藤原行隆、続いて藤原定長、次官三善為信、判官中原基康、主典三善行政がついた。
修理大仏司の長官は兼任として行隆ともう一人、異例ながら身分の低い官務家の小槻隆職が長官として任ぜられ、また後に、次官小槻有頼、判官大江国通、主典仲原資広がついた。
第一期
第一期は、養和元年(1181年)から文治元年(1185年)までである。
重源は、東大寺における勧進の拠点として、境内に東大寺別所を設けた。
『東大寺造立供養記』によれば、これは元々、前述の田口成良の寄進物で、それを東大寺別所と改められたものだという。
10月6日、まず、大仏の鋳造は、その螺髪から行われ、翌寿永2年の正月三日から活動が盛んになり、5月19日には、炉に火がくべられた。
重源は、後白河法皇や藤原聖子から一般大衆まで、金属類や炭を集めて回った。
鋳潰して、原料とするためである。
鋳造は、宋の技術も取り入れて行われた。
宋の商人陳和卿は、船の難破により博多にとどまっていたところを重源に雇われ、指導することとなった。
陳以外にも、日本からは草部是助など草部姓の、蔵人所の組織下になかった鋳造師も起用された。
『吾妻鏡』によれば、5月25日に鋳造は完了し、『東大寺続要録』によれば、6月1日に磨き終ったとする。
そうしたなか7月1日、ついに平氏は源義仲の勢いに負け、都落ちとなった。
義仲が都に君臨するなか、12月22日には造大仏司は人員を増強され(前述の次官小槻有頼、判官大江国通、主典仲原資広)、つぎに鍍金のために東国や奥州の協力を仰ぐこととなった。
東国に渡りをつけたのは、平頼盛やあき子内親王であり、開眼供養が終ってからであるが文治2年(1186年)に奥州への勧進を引き受けたのは、西行であった。
元暦2年3月7日に東国から、平家没官領からの年貢を含む米一万石、金千両、上絹千疋が届いた。
これにより、首以外の鍍金は済んだものの、もう一つ頼みの奥州からはなかなか届かなかった。
それで、工事は未完のまま大仏の開眼供養の日は来たのだった。
文治元年8月23日、大仏の胎内に仏舎利が納められた。
これは、大仏の造立に諸々の便宜をはかってきた九条兼実や後白河法皇などの寄進物で、そうしてあつまった仏舎利の総計は、重源の功績を記した『南無阿弥陀仏作善集』によると、八十あまりにもなったという。
準備なって8月28日、開眼供養は催された。
この日の主な出席者は、後白河法皇や藤原経宗、中原親能、藤原能盛、平業忠、源雅親などで、奉行人は、藤原宗家、吉田経房、藤原兼光、藤原行隆、清原忠業、大江国通が就任した。
開眼師は別当の定遍、呪願師は信円、導師は覚憲、開眼の筆は法皇自身がとった。
ほかにも、千人の僧侶と、そして『醍醐雑事記』には「その数幾万億を知らず」ともかかれるほどの熱狂した大群集が集ったのだった。
この日は儀式の最中に大雨となり、貴族の中には途中で帰ってしまった者が多くいたが、一方民衆は、大仏の縁にすがろうと、開眼の筆に結び付けられていた七町ものながいながい「善の綱」に群がった。
また、その場で髪を落として出家する女や、舞台に刀剣を投げるものもでた。
源雅頼はこれを、とても公事とは思えない、とその度を過ぎた熱狂ぶりを悪し様に表現している。
第二期
第二期は、文治元年(1185年)から建久6年(1195年)までである。
建久元年(1190年)、大仏殿の上棟式が、建久6年、大仏殿の供養が行われた。
こうして開眼供養は終ったのだが、もちろん、これで復興計画が終ったわけではない。
まだ、大仏殿をはじめとする堂舎や仏像の修築修造という難事業が残っている。
勧進を続ける文治年間の重源のまえには、新たな問題が起きていた。
大きなものでは、義経への対応をめぐる法皇と頼朝の対立があったし、また兼実の摂政への就任、行遍や行隆の死去、隆職の解任もあった。
兼実は東大寺再建に熱心なのだから、国政の中心人物になったことは、東大寺にいいこともある。
しかし、同時に兼実が藤氏長者となったことで、氏寺である興福寺を中心に法成寺や東寺の再建にもより力を注がなければならなくなった。
この状況を打破するために、重源は伊勢に参り、一団を引きつれ、大般若経の書写、転読供養と奉納を行った。
これは、五味文彦により、当時有力な勧進僧であった鑁阿の影響を受けて、勧進という困難の完遂に伊勢の神のたすけを必要としたこと、東国や朝廷に、東大寺への注目をより集めることが目的であったことが指摘されている。
文治2年4月5日、周防国が東大寺の造営料国となった。
東大寺の杣があった伊賀国では、すでに伐採しつくし、山は荒れ果てていた。
それでこれまでに重源は、良質な材木を求めて吉野や伊勢に赴いたけれども、ここでも充分に用は果たせなかった。
そこで、まだ良材が残っていた周防国が朝廷からあてられたのである。
材以外にも、周防国の収益は、朝廷が済物の免除を許可したことで、東大寺造営に全てが捧げられた。
この周防国の知行に、異例のことながら、重源は自ら乗出した。
この経営の実務能力は、師行譲りであった。
このときの周防国は、重なる戦乱は終ったものの、その被害からの復旧もままならず、民衆は飢餓に苦しんでいた。
また、在庁官人や元国衙領で権門が所有する荘園、幕府派遣の地頭の力が強く、いかにこれら在地勢力の助力を得られるかも大きな課題だった。
重源は、この地にも別所(周防別所、寺号は阿弥陀寺 (防府市))を建立してこれを経営の拠点とし、活動を開始した。
重源は、道を切開き川に堰を設けるなど社会基盤を整備しつつ、轆轤や筏の工夫で伐採し運び出した(『東大寺造立供養記』)。
そのとき、なかなか人手が集まらなかったのは、重源の悩みの種であった。
佐々木高綱など、個人的な御家人の同信はいたものの、やはり、家々に課役せねば、事業は成し遂げられそうにもなかった。
文治三年には造東大寺長官の藤原行隆が死んだために、材を引く麻苧の綱も不足した。
次代の長官には、院近臣の藤原定長が就任した。
定長は行隆のようには東大寺再興に熱心ではなかったものの、その役割上、朝廷や幕府への協力を取付けるのは適任だった。
ただ、頼朝は西国の御家人についてはこれを動員することに消極的であり、重源は御家人に対しては、高綱など、自ら協力を申し出てくれる有志に頼むしかなかった。
文治5年、奥州合戦が勃発、奥州は東国政権の支配下にはいった。
同年、重源は、朝廷の許可も待たず、勝手に大仏の後山を取り除いた。
この後山は、天長4年(827年)、大仏を修理したおりに築かれたもので、足場と、大仏の支えにもなっていた。
が、見栄えの問題と、大仏の背面が隠れ、状態がわからないこと、光背の修築に邪魔なことから、重源から撤去が望まれていた。
朝廷は大仏が支えを失い崩れることを懸念して反対していたが、重源は、実際に修理にあたる立場を利用して実力行使したのである。
翌建久元年(1190年)、上棟式が催された。
これには、兼実と法皇が参加し、頼朝は同席しなかった。
このころから高綱を中心に勧進への東国の支援の態勢も整い、大仏殿の工事はすすんでいった。
建久3年、後白河法皇が歿した。
こののち、兼実を中心に朝廷は回っていくことになる。
翌建久4年、播磨、備前両国が、文覚が復興の勧進に当たっていた東寺と東大寺の造営料国になった。
播磨国大部荘には別所(後の浄土寺 (小野市))を建立し、備前国は、重源が直接知行することとなった。
重源は、治安の回復や寺院建造をし(『南無阿弥陀仏作善集』)、備前国を中心とする両国の財力は、東大寺の復興につぎこまれた。
大仏殿以外の修造もすすみ、建久5年には院尊を中心とする院派によって光背がつくられた。
同年、興福寺の復興供養が催され、つぎは東大寺の番となった。
この供養では頼朝も参加することになったが、大々的なものであった。
頼朝は前年には東国の御家人に命じ、多くの御家人を伴って上洛をした。
そして建久6年3月12日、大仏殿落慶供養が催された。
この日は、さきの大仏開眼供養と同じく、大雨となり、儀式は省略して行われた。
また、さきの供養のような混乱を避けるべく、兼実によって雑人の立入りは禁じられ、そのために静かに進行していった。
その後、功績のあった人々には、賞がおくられた。
重源は、鑑真の例にならって大和尚、仏師の運慶には法眼の僧位が、陳和卿には頼朝からも賞品を授けられた。
第三期
第三期は、建久6年(1195年)から建仁3年(1203年)までである。
建仁3年、総供養が盛大に行われた。
この時期に、南大門と、その中に納められた慶派が腕をふるった仁王像、手向山八幡宮、その本尊となった八幡神像などが造られた。
そして建仁3年11月30日、総供養が行われ、これには土御門天皇も参加した。
その三年後の建永元年、重源はこの世を去った。
当時としてはかなり高齢の、八十六歳のことだった。
栄西、行勇による再興
重源死去以降も、復興事業は続けられ、その後大勧進の職は重源から栄西、退耕行勇へと移っていった。
栄西は承元2年(1208年)に落雷によって失われた法勝寺九重塔の再建にかかりきりだったため、東大寺への重要な働きをしたのは、三代目大勧進の行勇であった。
栄西は後鳥羽天皇の信頼を得た、力を持った僧であったが、この栄西が大勧進に就いた(在任、建永元年(1206年) - 建保3年(1215年))ことが、東大寺に苦境をもたらした。
このころ栄西は、護願寺であった法勝寺の九重塔の再建にも同時にあたっており、朝廷の助力もそちらに大きく向けられた。
ために、東大寺は省みらず、復興はすすまなかった。
それどころか、重源の折に得た周防国という重要な財源も取上げられた上、法勝寺に振分けれられる始末だった。
この九重塔の再建は建保元年(1213年)まで続けられた。
この苦難は、第三代の大勧進、行勇(在任、建保3年(1215年) - 仁治2年(1241年))が救うこととなる。
南北朝・室町時代
室町時代は、災害によっていくつかの堂宇が失われた。
康安2年(1362年)正月の雷によって東塔と子院の真言院が、文安3年(1446年)正月に戒壇院が、永正5年(1508年)に講堂が、それぞれ火災の被害にあっている。
戦国時代と大仏殿炎上
戦いの詳しい様子は東大寺大仏殿の戦いを参照。
永禄十年(1567年)、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)は、筒井順慶とともに松永久秀と戦い、東大寺大仏殿に立てこもった。
このとき久秀は多聞城におり、激しく争った。
この多聞山からの火、また、10月10日の久秀の焼き討ちもあって、一連の戦闘の結果、南都は般若寺、興福寺やその塔頭なども焼失したが、東大寺の被害もまた大きかった。
戒壇院、浄土堂、中門堂、唐禅院、それに大仏殿などが焼け、残った堂宇の方が少ないほどだった。
この後、大仏には覆いなく、雨ざらしのなか元禄再興までおかれた。
大和国山辺郡の土豪であった山田道安は、そんな大仏の惨状を見て、立ちあがったひとりである。
翌永禄11年、道安は仏頭の修繕をはじめ、元亀3年(1572年)に終えている。
道安はその功績をたたえられ、綸旨も贈られた。
しかし、東大寺の再興が終ったわけではなかった。
永禄11年(1568年)、洛北、堀川の西岸にあった阿弥陀寺の住職であった清玉は、綸旨あって勧進をおこなった。
これに、織田信長や松永久秀、三好長逸も援助をしたが、戦乱の大混乱もあって、なかなか事はすすまなかった。
この勧進の特徴として網野善彦は、大名の援助に依存する面の強いことをあげている。
中世の勧進といえば、遍歴性が高く、社会活動を伴って、庶民の信仰に頼るもの、という印象が強い。
が、戦国時代から安土桃山時代、勧進聖は「がんにん坊主」などと呼ばれ、貶められ差別を受ける傾向にあった。
この清玉の勧進はその、網野の説く、「無縁」の原理の薄れていった時代を象徴しているといえる。
江戸時代と大仏殿再建
江戸時代、奈良の町に、奈良奉行ができたが、この奈良奉行を支配下としたのが、京都町奉行だった。
京都町奉行の命令は、奈良の行政、司法を差配し、奈良奉行が受け持ったのは、朱印地を持つ寺社であった。
大仏殿再建など、元禄の東大寺再興にあたったのが、公慶である。
公慶は慶安元年(1648年)、丹後国宮津(今の宮津市)で生まれた。
東大寺境内の水門郷で育ち、同寺で出家した。
そして貞享元年(1686年)、幕府の認可をもって、江戸、京、大坂の大都市を中心に勧進をしはじめた。
同5年に勧進上人に任ぜられた。
江戸では長寿院を、東大寺では自ら創建した子院の竜松院を拠点とし、元禄3年に大仏の頭を、元禄4年には東大寺八幡宮(手向山八幡宮)の修造がなった。
大仏殿の修復は未完であったものの、元禄5年に、大仏再建をもってとりあえずの開眼供養をした。
開眼導師は別当の済深法親王が、供養の導師は勧進に協力的であった興福寺一乗院門跡の真敬法親王が、結願日の導師は華厳長吏で尊勝院主の道恕が務めた。
供養には諸国から多くの民衆が結集し、多数の正倉院蔵の宝物が陳列された。
また同じく奈良の元興寺や璉城寺、慈眼寺、薬師寺、唐招提寺、秋篠寺なども宝物を開陳したため、大いに賑わった。
『大仏殿再建記』には、この時集った民の数を二十万人以上と伝えている。
大仏殿再建のために、より一層の幕府の協力が必要であった。
公慶は、知り合った隆光のつてを頼って、桂昌院とその子、将軍徳川綱吉の支持を得ることができた。
幕府は公慶に大仏殿を11間から9間に縮小する計画をのませたものの、協力は惜しまなかった。
多くの金銀を東大寺に送り、また、諸大名に人員や金銭の供出を呼び掛けた。
また、元禄9年からは、奈良町奉行を内田守政と、東大寺の担当に妻木頼保を任じて、二人体制に増強した。
公慶は次々と堂宇を建てていった。
東大寺境内では念仏堂の修理、東南院の再建、東照宮(今の天皇殿)、周防国にも行って、慕っていた重源の記念のために、俊乗院を建造した。
元禄16年には懸案の東大寺大仏殿虹梁を日向国の霧島山山腹より切り出し、宝永元年までかけて苦労して運び入れた。
公慶は、宝永2年に死去、全寺をあげて葬儀を行い、勧進役は弟子の公盛、公俊、庸訓が継いだ。
宝永6年、東大寺総供養が行われ、公慶やその弟子によりなった東大寺再建が盛大に祝われた。
明治時代以降
明治維新を迎え、新政府の政策によって、廃仏毀釈の風潮が生まれ、東大寺の経営はいよいよ苦しくなった。
知行地3200石がなくなったのである。
東大寺大勧進職も東南院もなくなり、正倉院も国の管理するところと成った。
明治元年(1868年)から浄土宗に属していた東大寺は、明治19年(1886年)、一宗を持ち、華厳宗の大本山となった。
明治29年、東大寺図書館を設立、勧学院 (東大寺)開設の認可もされた。
勧学院は、華厳宗に限らず様々な宗派の学僧が、講師受講生として訪れ、まさに八宗兼学の場にふさわしい学舎となっている。
明治以降も、堂宇の修繕は盛んに行われた。
実は、江戸時代に再建された大仏殿の設計には狂いがあって、ごまかしきれない壊れがでてくるまでになってきた。
そこで、明治36年(1903年)から、大仏殿の解体修理が行われた。
この大修理には、鼓坂荐海、菅沼英樹両別当の尽力もあって、勧進の許可を政府から受け、計画は進められた。
最終的に総工費72万円となった大工事は、西洋の鉄工技術もとりいれられ、七年もの歳月をかけて行われた。
その後、昭和2年には南大門の解体修理もなされている。
内務省、大蔵省財務局から奈良県の管轄となっていた境内地は、昭和26年に元の面積の五分の一ではあるが、払い下げられた。
そして、大仏殿昭和大修理である。
大正以来の大仏殿に対する風雨の被害が積もりに積もり、行われたものである。
そのためこの修理は、大屋根を中心に、1973年(昭和48年)から7年、34億円以上もかけて行われた大規模なものになった。
また、1989年(平成元年)から1994年(平成5年)にあった南大門金剛力士像の解体修理では、金剛力士像に関する様々な謎が解明されることとなった。
年表
天平13年(741年) - 聖武天皇による国分寺建立の詔
天平15年 - 聖武天皇による大仏造立の詔
天平16年 - 甲賀寺において、大仏造立開始
天平17年 - 恭仁京から平城京へ遷都
天平勝宝4年(752年) - 大仏開眼供養
天平勝宝7年 - 戒壇院建立
承和 (日本)3年(836年) - 空海、真言院を創建
斉衡2年(855年) - 大仏の頭部落つ、同年修理
承平 (日本)4年(934年) - 西塔が落雷罹災、焼失
長保2年(1000年) - 西塔焼失
長元4年(1031年) - 深覚、西院創建
保安 (元号)1年(1120年) - 大宰府の観世音寺、東大寺の末寺となる。
治承4年(1180年) - 平重衡による南都焼討。
東大寺、興福寺は大被害。
文治1年(1185年) - 大仏落慶供養
建久6年(1195年) - 東大寺総供養
元弘1年(1331年) - 後醍醐天皇、東南院、続いて末寺笠置寺へ潜幸
永禄10年(1567年) - 東大寺大仏殿の戦い、大仏殿や大仏など東大寺大被害
永禄11年 - 山田道安による大仏頭などの修復、清玉による勧進はじまる
元禄1年(1688年) - 公慶による大勧進、復興始まる
元禄5年(1692年) - 大仏開眼供養
明治1年(1868年) - 神仏分離令
明治5年 - 浄土宗に組込まれる
明治12年 - 大仏殿修造開始
明治16年 - 華厳宗として独立
大正4年(1915年) - 大仏殿修理落慶供養
昭和48年(1973年) - 昭和大修理開始
昭和55年 - 昭和大修理なる
史料
東大寺の歴史を読み解く上で大いに関ってくる史料には、以下のものがある。
東大寺文書 - 日本に数ある寺院文書のなかでも、最重要のもののひとつ。
東京大学史料編纂所編『大日本古文書』所収。
東大寺要録 - 11世紀初頭の成立。
東大寺続要録 - 鎌倉時代の成立。
『続々群書類従』所収。
東大寺雑集録 - 江戸時代に編纂された寺誌。
『大日本仏教全書』所収。
東大寺別当次第 - 塙保己一編『群書類従』所収。
東大寺年中行事
大仏殿再興記
南無阿弥陀仏作善集 - 東京大学史料編纂所編『大日本史料』所収。
南無阿弥陀仏とは重源のことで、重源が生涯のうちにいかに作善をしていったか、記されている。
東大寺造立供養記 - 重源による大勧進を賞賛した文書であるが、室町時代以降の成立で、虚実が入交じる。
『群書類従』所収。