柳本藩 (Yanagimoto Domain)

柳本藩(やなぎもとはん)は、大和国式上郡・山辺郡・宇陀郡を領有した藩。
藩庁は柳本陣屋(現在の奈良県天理市柳本町黒塚古墳)。
なお、藩庁は陣屋であるが、家格は城主大名であった。

藩史

織田信長の弟で、茶道として有名な織田長益(織田長益)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に与して戦功を挙げたことから、大和国と河内国の内に3万石の所領を与えられた。
その後は徳川家康に仕えず、豊臣秀頼の大叔父ということで秀頼の家臣となっていた。
大坂冬の陣では豊臣方として戦ったが、その裏では徳川方に内通したり、冬の陣における和睦交渉で裏工作を行なっている。
そして夏の陣直前に豊臣方から離れたため、戦後に罪には問われなかった。
しかし有楽斎は藩領3万石のうち、1万石を自分の隠居料とし、残りの2万石うち、1万石を四男の織田長政 (大名)に、同じく1万石を五男の織田尚長にそれぞれ分与した。
このため、長政の系統は大和国芝村藩として、尚長の系統は柳本藩として存続することとなる。

柳本藩は尚長の後、織田長種、織田秀一と続いたが、第4代藩主・織田秀親の代である宝永6年(1709年)2月、前将軍・徳川綱吉の法会が寛永寺で行なわれているときに、発狂した前田利昌 (大聖寺新田藩主)によって秀親が殺されてしまったのであった。
このため、柳本藩は改易の危機を迎えたが、藩の家老たちが機転をきかせて秀親は病死ということにして弟の織田成純を養嗣子として後を継がせ、改易の危機を脱したのである。

江戸時代中期頃になると、小藩の悲しさから藩財政の窮乏化が表面化する。
このため領民に重税を敷いたが、第10代藩主・織田秀綿の代である明和6年(1769年)1月には百姓が重税に反対して強訴を起こすに至った。
享和2年(1802年)12月にも百姓による年貢軽減を求める一揆が発生し、織田軍と百姓との間で乱闘による死傷者が多数出ている。
さらに江戸時代後期に入ると、ただでさえ藩財政が厳しい中で文政13年(1830年)には火事により柳本屋敷が全焼する。
このため第11代藩主・織田信陽は天保4年(1833年)10月に藩士27人のリストラを行なっている。
そして嘉永5年(1852年)12月27日には信長以来の名族ということもあって、城主大名に任じられた。
幕末期では天誅組の反乱鎮圧や天皇陵の修築工事を行なうなど、早くから官軍に近づいていた。
明治維新後は版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により柳本藩は廃藩となり、柳本県を経て奈良県に編入されたのである。

なお、織田氏の諸藩では、織田信雄の系統で天童藩、丹波柏原藩が、有楽斎の系統では柳本藩の他に芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続した。
有楽斎の系統は他に味舌藩、野村藩が存在したが、これらは江戸時代初期に除封、無嗣断絶している。

[English Translation]