桂川原の戦い (Battle of Katsurakawara)
桂川原の戦い(かつらかわらのたたかい)は大永7年2月12日 (旧暦)(1527年3月14日)夜中 - 2月13日まで京都の桂川 (淀川水系)原一帯で行われた戦い。
香西元盛は、細川尹賢の讒訴を信じた細川高国によって自害させられた。
このため、香西元盛の兄弟の波多野稙通と柳本賢治は、細川高国に八上城・神尾山城両城で反旗を翻し、阿波国守護細川晴元や黒井城主の赤井五郎の援軍を得て、桂川原の戦いで勝利した。
敗北した征夷大将軍足利義晴や細川高国らは京から近江国に逃れた。
この戦いは堺公方の誕生のきっかけとなった。
別名「桂川の戦い」とも言う。
八上・神尾山両城の戦い
細川高国は讒訴を信じ、度々自身の家臣を自害させていた。
これに対して良い感情をいだいていなかった波多野稙通は、十分な調べもないまま弟の香西元盛が自害させられたことを知り、怒りを爆発させ丹波国で反旗を翻した。
これに驚いた細川高国は、大永6年(1526年)10月23日、神尾山城に総大将細川尹賢軍を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、それぞれの城を包囲した。
その後小競り合いが続いていたが、波多野稙通に同情的であった丹波国守護代内藤国貞は11月5日に神尾寺城の包囲軍から離脱した。
また11月30日、赤井五郎が3000の兵を率いて神尾寺城包囲軍の背後から襲い掛かり、赤井五郎軍にも大きな損害がでたものの包囲軍を打ち破った。
この敗報を知った八上城の包囲軍も翌12月1日囲みを解いて退却した。
この退却の途中、細川晴元と通じていた池田弾正は瓦林修理亮らに一斉に矢を射かけ、細川尹賢軍は散々な態で京へ逃散した。
落城する摂津諸城
波多野稙通より知らせをうけた細川晴元は三好勝長、三好政長に出陣を命じ、阿波国より堺に上陸、同年12月13日に中嶋の堀城を占領し越年した。
波多野稙通軍も行動を開始、丹波国を出国し翌大永7年(1527年)1月28日に野田城をわずか7日間で陥落させた。
波多野稙通はそのまま京に向かうと見せかけて、一気に南下し2月4日山崎城 (山城国)を陥れた。
山崎城に詰めていた摂津国守護薬師寺国長は高槻城に逃亡してしまった。
その後、芥川山城、太田城 (摂津国)、茨木城、安威城、福井城 (摂津国)、三宅城、の諸城を次々と攻め落としたり、降伏させたりした。
2月11日波多野軍と三好軍は山崎城で合流、翌2月12日桂川を挟んで細川高国軍と対峙した。
戦いの状況
細川高国も諸大名に援軍を要請したが、結局、要請に応じたのは若狭国の武田元光のみであった。
細川高国軍は、主力として鳥羽から鷺の森辺まで川沿いに隙間無く一文字に陣をしいた。
本陣はそこから少し後方の六条に将軍足利義晴自らが陣をしいた。
後詰の軍として本陣から北側、桂川の川勝寺に武田元光軍が陣をひいた。
戦闘は2月12日夜中、川を挟んだ矢の応酬から始まった。
翌2月13日、主力への攻撃を予想した細川高国軍に対して、三好軍は裏をかいて桂川を渡河、後詰の武田元光軍に襲い掛かった。
かなりの激戦となったが、武田元光軍は死者80名を出し敗退した。
これに危機感を覚えた細川高国は自らが武田元光軍に救援に向かったが、弟の日野内光大納言卿が戦死、また精鋭の荒木父子も戦死、
馬廻り 10名前後、雑兵 300名を失うという大敗をして、兵を退いた。
波多野・三好連合軍も三好勝長が瀕死の重傷を負ったほか、80名の戦死者が出たが、天下分け目の合戦は波多野・三好連合軍が勝利した。
戦後の状況
細川高国は2月14日、足利義晴を奉じて坂本に逃げ去った。
この逃亡には大きな意味がある。
将軍や管領が京都を落ち延びることは今まで何回もあったが、評定衆や奉行人といったものまで逃げ出してしまったため、京都幕府は崩壊してしまったのである。
これが後に堺公方誕生の引き金ともなった。
波多野・三好連合軍は、2月16日に京都に進軍、治安維持と宣撫工作に取り掛かったが、細川晴元の入京待ちとなった。