正徳の治 (Shotoku no chi (political reforms))
正徳の治(しょうとくのち)とは正徳 (日本)年間を中心に進められた政治改革である。
正徳は江戸時代の6代将軍徳川家宣・7代徳川家継の治世の年号で、主に将軍侍講(政治顧問)の新井白石と側用人の間部詮房らが実際の政権を担った。
白石の儒学思想を元に、文治政治と呼ばれる諸政策を推進した。
8代将軍徳川吉宗が行った享保の改革により相当部分は修正される。
正徳金銀の発行
家宣は大老格の柳沢吉保をはじめ側用人・松平忠周、松平輝貞ら前代の権臣を更迭したが、勘定奉行には他に適任者がいないということで引き続き荻原重秀が留任していた。
荻原は元禄期、いままでの高純度の慶長小判慶長丁銀を回収し金銀含有率の低い元禄小判元禄丁銀を発行し、家宣時代になってからも将軍の承諾を取り付けることなく独断で宝永小判宝永丁銀を発行し、幕府財政の欠損を補うという貨幣政策をとった。
結果、約500万両(新井白石による推定)もしくは580万両(荻原重秀による推計)の出目(改鋳による差益)を生じ一時的に幕府財政を潤した。
しかし、一貫して金銀の純度を下げる方向で改鋳をし続けた結果、実態の経済規模と発行済通貨量が著しくアンバランスになりインフレーションが発生していた。
また、荻原は御用商人からの収賄や貨幣改鋳に関して巨額の利益を収めたなど、汚職の噂が絶えなかった(新井著「折たく柴の記」による)。
新井は荻原を「有史以来の奸物」「極悪人」と断罪し、荻原を罷免すべきという上申書を提出すること三度におよんだ。
最後には荻原を罷免しなければ殿中で重秀を暗殺すると脅迫したため、家宣も正徳2年(1712年)に重秀をとうとう罷免した。
ようやく貨幣政策に関してイニシアティブを握った新井は貨幣の含有率を元に戻すよう主張。
有名な正徳小判正徳丁銀は新井の建言で発行されたもので、これによって逆にデフレーションが発生した。
これは通説であるが、正しい理解ではない。
市場の貨幣流通量を減らすべくその方法として貨幣純度を元に戻す必要は感じていたが、これを一気に行えば経済界に与える悪影響は計り知れない。
そのため元禄金銀・宝永金銀の回収と新金銀の交換は少なくとも20年はかけて徐々に行うように提言している。
事実、正徳の治の間に行われた改鋳量は正徳小判・一分金合わせて約21万両であり、元禄金銀・宝永金銀(あわせて小判2545万両、丁銀146万貫)に比較すると、これだけをもってデフレを起こすほどインパクトが強いとはいえないのである。
海舶互市新例
長崎貿易の決済には金銀が多用されたが、この結果、日本の国内通貨量のうち金貨の4分の1、銀貨の4分の3が開幕から元禄までの間に海外に流出したと新井は計算した。
新井は長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にし、改革案を起案した。
これが海舶互市新例(正徳新令、長崎新令とも呼ばれる)で宝永5年(1708年)に施行され、基本政策は幕末まで踏襲される。
この法制の骨子は輸入規制と商品の国産化推進である。
すなわち長崎に入る異国船の数を制限し、かつ貿易額そのものにも制限を加えるというものである。
具体的には清国船は年間30艘、交易額は銀6000貫にまで制限し、また和蘭船は年間2隻、貿易額は3000貫に制限した。
また、これまでの輸入品であった綿布、生糸、砂糖、鹿皮、絹織物などの海外品はむしろ国産化を推進すべきである、農民は米穀のみをつくり商品作物の栽培は禁ずるという伝統的な封建制度の政策はその限りにおいて緩和されるべきであると考えた。
海舶互市新「例」であり、注意が必要である。
また、同法の画期的な部分は次回来航期限を定めた信牌交付や長崎の行政改革による貿易管理の強化の部分にある。
貿易額の制限そのものは綱吉時代の踏襲に過ぎず、更に新井の意見書には綱吉時代の改革で金銀の海外流出はほとんどなくなっていた事実を意図的に無視するなど、儒教的な抑商思想に由来する貿易統制ありきの発想が存在する。
勘定吟味役の再設
賄賂の横行や罷免された荻原重秀の独断専行を目の当たりにしていた新井は先に荻原が廃止した勘定吟味役を正徳2年(1712年)に再度設置し、杉岡能連、萩原美雅(ともにのち勘定奉行)を任命し、勘定所自体の綱紀の引き締めを図った。
朝鮮通信使待遇改訂
日朝関係は豊臣秀吉の文禄・慶長の役によって破壊され、関係の復旧に意欲を示した徳川家康は対馬国の宗氏を通じて国交回復の交渉を行い、結果寛永13年(1636年)に朝鮮通信使という名の使節の最初の者が送られてきた。
以後、将軍の代替わりのたびごとに通信使が来日することになる。
家宣が将軍に就いた時にも、それを祝って正徳元年(1711年)に第8回目の通信使が来日している。
変更の骨子は「経費節減」と「将軍の呼称の変更」の2つである。
正使以下の一行の人数は約500人、供を含めると大体1000人となる。
さらに対馬から江戸までの道中は各藩が担当したからその人数も含めると更に多くなる。
また、李氏朝鮮も徹底した文治主義をとり、非常に形式主義的な性格の強い朝鮮使節の応接は勅旨以上に気を使うものであった。
白石は通信使の応接に約100万両という巨額の費用がかかり、そのため、幕府財政が傾く恐れがある、こう判断し、60万両で抑えることに成功している。
朝鮮側の国書の宛先を「日本国大君」から「日本国王」に直した。
新井としては、「征夷大将軍」は日本国内でこそ威権があるが海外では何を意味するのかが不明であり、大君の称も朝鮮では王子の嫡子に対する称号として用いられていたため、この際、足利時代にも一度国書で使用された「国王」に変更すべきであるというものであった。
これに対しては幕府内反対派の林家から「国王は天皇を指し、将軍が国王を名乗るべきではなく、無用の改変。平地に波風を立てるもの」、また対馬藩藩儒雨森芳洲から「李氏朝鮮は急激な変革を特に嫌う。再考願いたい」とそれぞれ反論をうけたが結果として実現している。
白石の描いた日朝対等の図式
閑院宮家の創設
当時、宮家は伏見宮家、京極宮家、有栖川宮家と3家あり、この3家を継いだ場合を除き親王を名乗ることができず、その他の天皇家の子女はすべて出家されるという形になっていた。
朝幕共存共栄の見地から、皇家の血統に万一があった場合を考えての創設であった。
宮家創設から半世紀後、後桃園天皇が崩御し皇継が絶えそうになった際、閑院宮家から典仁親王の第6王子・兼仁王が光格天皇となり、その後、光格→仁孝→孝明→明治→大正→昭和→今上と続き、今日に続いている。
閑院宮家の設立は皇継断絶を救う結果となったのである。
武家諸法度改定
武家諸法度を難解な漢文から仮名交じり文に改め、誰でも理解できるよう工夫した。
生類憐れみの令を廃止
前代の徳川綱吉の時代の生類憐れみの令を早くも綱吉死後の10日目には廃止し、これによって処罰されていた6000人以上の人の罪を解いた。
改革の評価
正徳の治については新井、間部が幕政に参与した期間が短く、また家宣死去後は反甲府派や門閥の抵抗が強まった。
このため、徹底したものにはならなかったので評価は難しい。
ただ旧来、正徳の治のその後を担った吉宗によって正徳の治の内容は否定されたといわれるが、必ずしもそうではない。
確かに吉宗は武家諸法度は元通り漢文体の天和令に復し、また朝鮮通信使の接待法、すなわち徳川将軍の表記を元通り「日本国大君」に戻している。
新井が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にさえされている模様でもある。
しかし、これらは紀州徳川家から将軍に就任した吉宗が側用人政治を嫌う土屋政直ら「援立の臣」らに功績としてどちらかというと形式的なところに着目してなされた一種の配慮とみる見解が有力である。
むしろ、実質的な経済政策の多く、特に貨幣政策における高品位主義、また長崎貿易の政策は吉宗もその方針の正しさを認識しており、正徳の治で行なわれた改革の内容はそのまま承継されている。
それが故に、幕臣たちは吉宗が新井を嫌って失脚させたと思っていたので、理解できなかった(もちろん吉宗は新井本人を評価しているのではなくて、あくまで政策を評価していたのである)。
これらについては、新井によって登用された萩原美雅を吉宗が再び起用していることからも明らかである。
結論としては、正徳の治と享保の改革には断絶があると考えるのは相当ではない。
前者の有用な部分は後者によって承継され、吉宗主導の改革と共に後世に残ったとみるのが至当である。