武士道 (Bushido (the way of the samurai))
武士道(ぶしどう)とは、封建社会の日本における武士階級の倫理及び価値基準の根本をなす、体系化された思想一般をさす。
教育者で思想家の新渡戸稲造など、文学・思想に大きな足跡を残したキリスト者達(新渡戸、内村鑑三、植村正久など)による異文化接合の形として顕われたのが、もう一つの「武士道」である(詳細は武田清子の「人間観の相克」を参照)。
概略
倫理とは共同体の一員としての義務であり、思想とは命題に対して思惟を展開する行為である。
武士階級を主体とした場合は封建社会の、近代の思想家を主体とした場合は近代の矛盾を命題とした思惟である。
具体的には封建社会において並存する「幕藩体制の倫理と武士階級の倫理の衝突」であり、近代日本においては「日本人のアイデンティティの喪失」である。
すなわち、ここで対象となるのは次の二つになる。
近世における倫理規定、また思想としての武士道
近代における思想としての武士道である。
近代における武士道については1900年に英文で発表された新渡戸稲造の『武士道』が代表的なテキストとされる。
本著は封建社会の武士道を題材としているが同時に武士道を直接的に解釈したのではなく「武士道」という日本の精神的土壌に発現した現象をその根本から探り当て普遍的真理を導こうとするものである。
すなわち封建社会の一階級の思想を日本人全体に当てはめるとするものではない。
武士道の萌芽
「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は、高坂昌信著とされる「甲陽軍鑑」である。
近年述べられる武士道の多くは、平和な江戸時代に官僚的に幕府制度を維持することが目的である。
決して、実際の戦闘で役立つ思想や哲学ではないが、高潔な人格を尊ぶ道徳性は、いつの時代にも必要とされるものである。
武士道は個人的戦闘者の生存術としての武士道であり、武名を高めることにより自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎の遺した家訓に表れているように、自己を高く評価してくれる主君を探して浪人することも肯定している。
また、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」という朝倉宗滴の言葉に象徴されるように、卑怯の謗りを受けてでも戦いに勝つことこそが肝要であるという冷厳な哲学をも内包しているのが特徴である。
これらは主に、武士としての生き方に関わるものであり、あくまでも各家々の家訓であって、家臣としての処世術にも等しいものである。
普遍的に語られる道徳大系としてのいわゆる「武士道」とは趣が異なる。
武士道の発展と深化
道徳大系としての武士道とは「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」。 ひいては「家名の存続」という儒教的態度が底流に流れているものが多く、それは江戸期に思想的隆盛を迎え、武士道として体系付けられるに至る。
しかし無論、儒教思想がそのまま取り入れられた訳ではなく、儒学の中では『四書』の一つとして重要視されている『孟子』を、国体にそぐわないものであると評価する思想家も多い。
この辺りに、山岡鉄舟が言うような武士道の武士道たる所以があるものと言える。
また、思想が実際の行動に顕現させられていたのが、武士道としての大きな特徴である。
武士道の展開と再生
江戸時代の安定期に山鹿素行は「職分論」の思想へ傾いていく。
武士がなぜ存在するのかを突き詰めて考えた山鹿の結論は武士は身分という制度ではなく自分が(封建)社会全体への責任を負う立場であると定義をすることで武士となり、(封建)社会全体への倫理を担うとするものであった。
無論これは山鹿の考えである。
例えば朱子学は、人間は自分の所属する共同体へ義務を負うとした。
この共同体で最上のものは国家である。
国家を動かすシステムは幕藩体制でありこれはそのまま武士階級の倫理を意味している。
山鹿はこれに対し人間は確かに国家に属しているが武士に(封建)社会全体への義務を負わせることを選んだ存在も確かにいるとした。
これは人間でもなく、社会でもない。
人間は自ら倫理を担うものであり、社会は倫理に基づいて人間が実践をする場である。
国家という制度のように目には見えないが武士を動かしたそれを山鹿は天とした。
そのうえで自らが所属する共同体への倫理と天からあたえられた倫理が衝突した場合に武士は天倫を選択すると考えた。
幕府は山鹿を処罰した。
山鹿は朱子学を批判したが、制度により共同体がつくられ所属する人間に倫理を担わせると考えるのは現実には学校という制度で今日も生きており、逆に山鹿の考え方は少数派となっている。
テキストとしての『武士道』
農学者で思想家の新渡戸稲造は『武士道』(1900)において19世紀末の哲学や科学的思考を用いながら、島国の自然がどのようなもので、四季の移り変わりなどから影響を及ぼされた結果、社会という枠の中で日本人はどのように生きたのかを説明している。
その上で武士の生活態度や信条というモデルケースから日本人の精神的な土壌が醸成された過程を分かりやすい構成と言葉で読者に伝えている。
新渡戸は近代において人間が陥りやすい拝金主義や唯物主義の根っこにある個人主義に対して、封建時代の武士は(封建)社会全体への義務を負う存在として己を認識していたことを指摘している。
無論これは新渡戸の考えである。
同時に新渡戸にとって武士は国際社会において日本人の倫理感の高さ、国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されていると説明するのに最適のモデルであったとするのが今日の一般的な見方である。
新渡戸を含めたキリスト者たちにとって日本の精神的土壌をどのように捉えるかは大きなテーマであり武士道はその内の検証の一つとされている。
1966年、小説家の遠藤周作はその作品『沈黙』により日本の精神的土壌においては神の存在、絶対的な存在が根付かないすべてのものを腐らせていく沼が日本であると登場人物の神父に語らせている。
「オールド・リベラリスト」と総称される新渡戸や内村鑑三の世界観を継承した弟子たちは戦後のデモクラシーの基盤を構築することとなるが同時に師匠を「裏切る」(山折哲雄の発言)ことになる。
このように『武士道』は今日でも様々な観点より検討されているが一般的には社会と人間との関わり、モラルについての書と見られている。
近世における武士道の観念
武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではない。
なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、「御恩と奉公」とする観念があったためである。
この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」といった考え方は当時は主流ではなかった。
体系付けられたいわゆる武士道とは言えず、未熟である。
なお、武士道を語るとき「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」といった言葉がしばしば言われるが、これは江戸時代の武士道成熟期には見られなかった考え方である。
明治時代、事実上武士が滅び、その思想のみがいたずらに活用されだした武士道爛熟期にあって、元武士階層出身者が中心となって臣民教育政策が施されたが、これはそこで歴史観が改められるのと同時に造られた標語である。
江戸時代の元和 (日本)年間(1615年-1624年)以降になると、儒教の朱子学の道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに士道の概念が確立された。
これによって初めて、儒教的な倫理(「仁義」「忠孝」など)が、武士に要求される規範とされるようになった。
山鹿素行が提唱した士道論は、この後多くの武士道思想家に影響を与えることになる。
享保元年頃(1716年)、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』が佐賀藩の山本常朝によって著される(筆記は田代陣基)。
これには「無二無三」に主人に奉公す、といい観念的なものに留まる「忠」「義」を批判するくだりや、普段から「常住死身に成る」「死習う」といったことが説かれていたが、藩政批判などもあったせいか禁書に付され広く読まれることは無かった。
幕末の万延元年(1860年)、山岡鉄舟が『武士道』を著した。
それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とある。
少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。
明治時代以降の武士道の解釈
明治維新後、四民平等布告により、社会制度的な家制度が解体され、武士は事実上滅び去った。
実際、明治15年(1882年)の「軍人勅諭」では、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされた。
ところが、日清戦争以降「武士道」が再評価されるようになる。
例えば井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとした。
内村鑑三や新渡戸稲造はキリスト教徒であり、教育者であり思想家であった。
特に新渡戸はキリスト教徒の多いアメリカの現実、拝金主義や人種差別に衝撃をうけ同時にキリスト者の倫理観の高さに感銘を受けた。
新渡戸は現地の教育関係者との会談において日本における宗教的教育の喪失に突き当たった結果、『武士道』(Bushido The Soul of Japan)を明治33年(1900年)に英語版で刊行した。
本書はセオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディ大統領など米国の政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン・パウエルなど、多くの海外の読者を得て、逆輸入される形で新渡戸門下生の矢内原忠雄の訳により日本語版が出版され「武士道」ブームを起こした。
無論、『武士道』以前より内村や新渡戸は日本文化における長所と短所について突き詰めた観察をしているし、戦後の教育基本法の審議委員に新渡戸門下生が加わっていた点を見ても戦後デモクラシーの大きな基盤となった点は間違いない。
但、武田清子が主張するように、新渡戸は教育者としての寛容さで異文化との比較、検討をしている点は内村鑑三や植村正久の厳しさと比べると甘さが残る。
また、新渡戸は武士道が速やかに廃れたこと、人口の数パーセントを占める支配階級の理念でしかないことから、日本人の伝統に根ざしたものではないとも指摘しているが、日本人の伝統として受け継いだ内容を再解釈した新渡戸の『武士道』は山本常朝の「葉隠」とともに、海外における日本の侍のイメージを決定づけた。
新渡戸の著作の影響もあり、Bushidoは、世界でそのまま通じる言葉となっている。