武家奉公人 (Buke hokonin)
武家奉公人(ぶけほうこうにん)とは、文字通り、武家に奉公する者を言う。
概要
武家奉公人は若党、中間、小者などの呼称があるが、地域、藩、各武家によっても意味合いに差があり、厳密な区別はできるものではない。
したがって下記にある若党、中間、小者に分けた解説はあくまで参考程度の内容である。
幕末になって江戸幕府及び諸藩は、火縄銃装備の「鉄砲組」を廃止し、洋式銃装備の「歩兵隊」や「銃隊」を作る必要に迫られたが、従来の足軽身分のものだけでは不十分なケースが多々見られ、こうした場合、新たに人員を募集し戦国時代の足軽隊に似た歩兵部隊を創設することがあった。
これらの身分は足軽より下の中間(ちゅうげん)待遇とされた。
若党(わかとう)
戦国期には、郎党の中の新しい者、若い者を指すのが、由来とされる。
一般的には小者と大差がないイメージだが、江戸期、旗本に使えている家臣(大名であれば藩士)を指す場合や城代家老の家臣などに、若党の呼称を用いることがあり、その場合は、武士身分の人物を指すわけだから、注意すべきである。
「供侍何名」などという場合の「侍」とは、この若党のことを指す。
江戸時代は「侍」でも明治時代には陪臣までも士族に加えると国政が悪化することから、平民とされた。
ただし庚午事変(稲田騒動)で有名な洲本城代の稲田氏の家臣は、北海道移住など過酷な条件の元、例外的に士族に取り立てられた。
中間(ちゅうげん)
脇差1つを挿し、時には戦いにも参加し、平時は雑用を行った。
大名行列等では奴(やっこ)の役を務めた。
渡り中間に代表されるように、一時限りの奉公の場合が多い。
タイプ1ー一時限りの中間
今で言うみなし公務員。
広く一般的に知られる中間はこれを指す。
江戸期になると、年季契約や、必要な時のみ口入れ屋から雇い入れるということがしばしば行われた。
多くは百姓の次男以下などが奉公したが、江戸など大都市では渡り中間のような屋敷を渡り歩く専門の奉公人を雇うことも多かった。
タイプ2ー特殊な中間
実態は足軽と同等扱い。
広く一般的に知られる中間は上記どおりだが、藩に正式に採用されてる家(世襲で藩に仕え、苗字帯刀が許されてるもの)や幕末に特殊な事例に用いて採用されたりした物を指す。
身分は平民と武士の間。
やはり特殊な事例である。
長州藩の山縣有朋や伊藤博文が資料などの記述で、足軽扱いされるのは本来の広く一般的に知られる中間と紛らわしいためであろう。
小者(こもの)
私的武家奉公人。
住み込みで主に雑用を行った。
小人、下男とも言う。
町奉行同心が捕物で使ったものを小者と呼ぶことがあった。
平民身分。