武田征伐 (Subjugation of Takeda)

武田征伐(たけだせいばつ)は、織田信長が、長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐へ侵攻し、武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。
「武田崩れ」とも呼ばれる。

合戦の流れ
戦いの序章
天正3年(1575年)、長篠の戦いの後、武田氏の外戚である木曾義昌(武田信玄の娘・真理姫の夫)は武田勝頼より秋山信友が守る美濃国岩村城の支援を命じられた。
しかし、財政的な理由で勝頼に反抗した。
信友は織田信長の軍に破れ処刑され、武田氏は信玄以来の西上作戦を実行する拠点を失い、逆に美濃からの織田氏の脅威にさらされることになる。
織田氏は畿内や北陸における一向宗との戦い(石山合戦)や西の毛利氏との戦いに忙殺されていたため、しばらく軍を東へ向けることはなかった。
しかし、織田氏の同盟者である三河国の徳川家康は長篠以降、武田氏に対し攻勢を強め、勝頼はたびたび出兵を余儀なくされた。
相次いだ出兵にかかった費用を穴埋めすべく、尋常ならざる割合の年貢や賦役を課していた。
このことにより、人心が徐々にではあるが勝頼から離れつつあった。
義昌もその一人であるが、勝頼の側も秋山支援に動かなかったため義昌に不信感を抱いており、両者の関係は急速に冷却化しつつあった。
天正10年(1582年)2月1日、新府城築城のため更に賦役が増大していたことに不満を募らせた義昌はついに勝頼を裏切り、織田信忠(信長の長男)に弟の上松義豊を人質として差し出し、織田氏に寝返った。

勝頼は、真理姫から義昌の謀反を知らされると、これに激怒し従兄弟の武田信豊_(甲斐武田氏)(信玄の弟・武田信繁の子)を先手とする木曾征伐の軍勢5000余を先発として差し向け、さらに義昌の生母と側室と子供を磔にして処刑。
そして勝頼自身の軍勢1万5000余も出陣した。

信長は2月3日に義昌の反乱を知ると武田勝頼討伐を決定、動員令を発した。
信長・信忠父子は伊那から進軍。
信長の家臣金森長近が飛騨方面から、同盟者の徳川家康が駿河方面からしんぐんした。
また、御館の乱を契機に武田とは交戦状態となっていた北条氏政(妹は勝頼夫人)も相模・伊豆・上野国から甲斐・信濃へ進軍することに決定した。

織田側の編成
天正元年(1572年)以降、織田信忠を筆頭に池田恒興、森長可(森成利の兄)、河尻秀隆らを主力とする、いわゆる「信忠軍団」が編成されており(池田は後に軍団を離脱→摂津へ)、主に、東美濃に勢力を張っていた武田の影響を排除する戦いをしていた。
武田征伐時には以下のような陣容であった。

大将:織田信忠
先鋒:森長可、団忠正、木曾義昌、遠山友忠
本隊:河尻秀隆、毛利秀頼、水野守隆、水野忠重
付属:織田長益他織田一門衆、丹羽氏次他
軍監:滝川一益

また、後から続く信長直率の軍団は以下のような陣容であった。

信長
明智光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、蒲生氏郷、高山右近、中川清秀他

武田軍団の崩壊
2月3日、まず長可、忠正の先鋒が岐阜城を出陣。
若い両将の目付けとして秀隆が本隊から派遣された。
2月6日、先鋒隊は伊那街道から信濃国に兵を進めている。
伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、織田の先鋒隊が信濃に入った同日、岩村への関門・滝沢(長野県下伊那郡阿智村・平谷村周辺)の領主であった下条信氏の家老・下条九兵衛が信氏を追放して織田軍に寝返った。
さらに松尾城(飯田市)城主小笠原信嶺も織田軍に寝返った。

2月12日、本隊の信忠と一益がそれぞれ岐阜城と伊勢国長島城を出陣し、翌々日の2月14日には美濃岩村城に兵を進めた。
翌日には信長から一益に「若い信忠をよく補佐せよ」との書状も届いた。
2月16日、武田勢は鳥居峠 (長野県)で信長の命を受けた織田一門衆らの支援を受けた義昌勢に敗北を喫した。
翌17日に信忠は平谷に陣を進め、さらに翌日には飯田まで侵攻。
同日、飯田城城主保科正直は城を捨てて高遠城へと逃亡した。(後に投降して戦後に高遠城主となった)。
飯田城放棄を聞いた武田信廉(信玄の弟)らは戦意喪失。
大島城(下伊那郡松川町)での抗戦は不可能とし、大島城から逃亡する。
同じ2月18日、徳川家康が浜松城を出発し掛川城に入った。
2月20日には依田信蕃が守備する田中城を包囲すると、城内に使者を送り開城を促した。
依田信蕃は故郷の三沢小屋に退去し田中城は開城、2月21日には駿府城に進出した。

氏政は小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河東部に攻め入る。
2月28日には駿河に残された武田側の数少ない拠点の一つである戸倉城・三枚橋城を落とし、続いて3月に入ると沼津市や富士市にあった武田側の諸城を陥落させていった。
上野方面では北条氏邦が前橋城の北条高広に圧力をかけ、さらに真田昌幸の領地をも脅かしていった。

高遠城への攻撃

2月28日、河尻秀隆は信長から高遠城を攻略のために陣城を築けとの命を受ける。
翌3月1日、織田信忠は武田勝頼の弟・仁科盛信の籠城する高遠城を包囲。
信忠は地元の僧侶を使者とし、盛信に黄金と書状を送り、開城を促した。
しかし盛信はこの要求を拒絶。
使者の僧侶は耳と鼻を削ぎとられて送り返された。
翌3月2日、織田軍30000余は総攻撃を開始し、仁科盛信や小山田昌行らは少数ながらも勇戦奮闘し、織田軍と激闘を繰り広げた。
織田方も少なからずの被害を受け、岩倉家出身の織田信家が戦死しているほどである。
しかし数で勝る織田軍に城門を突破されるに及び、ついに仁科盛信と小山田昌行は自刃。
高遠城は落城した。

武田勢がことごとく逃亡する中で、徹底抗戦を貫き、武田武士の力を見せつけたのはこの仁科盛信だけであった。
盛信の首のない遺体は彼を崇める地元の領民によって埋葬され、そこは今も「五郎山」と呼ばれている。

勝頼逃亡
2月28日、木曾義昌に敗北した武田勝頼は諏訪での反抗を放棄し、新府城(韮崎市)に逃亡した。
勝頼を追う織田信忠は高遠城陥落の翌日、本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払った。
木曾義昌は信濃の要衝である松本城の攻略に向う。
3月1日、武田氏一族の穴山信君が徳川家康に通じ、織田側に寝返った。
3月4日、家康は梅雪を案内役として甲斐国に侵攻を開始した。

翌3月5日、織田信長は安土城を出発。
3月6日には揖斐川に到達。
ここで嫡男・織田信忠から高遠城主仁科盛信の首が届き、これを長良川の河原に晒した。

3月3日、武田勝頼は新府城で真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)に逃亡するか、小山田信茂の岩殿山城(大月市)に逃亡するか軍議を開いた。
昌幸は岩櫃城が要害であることを説明して岩櫃城行きを勧めたが、信茂が、岩櫃城までは遠路に加えて雪が深いことを理由に岩殿城行きを力説した。
最終的に勝頼は昌幸よりも、一族の信茂が支配する岩殿行きを決意する。
そして、未完成の新府城に火を放つと、岩殿城目指して逃亡した。

天目山の戦い

1582年3月7日に信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出して、これを全て処刑した。
この時に処刑されたのは一条信龍・諏訪頼豊・武田信廉など。

3月9日に勝頼とその嫡男の武田信勝一行は岩殿城を目前にした笹子峠(山梨県大月市)で小山田信茂に攻撃され、岩殿城入城を拒まれる。
これには諸説あり、小山田信茂は武田家と主従関係でなく盟友関係にあり、郡内領を有する一大名という考え方から、戦禍を恐れる領民の反対などを受け、領地を守るためにとった行動であるという説がある。
また、実は小山田信茂が笹子峠から勝頼を攻撃したという事実はないという説もある(笹子峠から攻撃したのは織田軍であるとも)。
いずれにせよ、勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(山梨県甲州市大和町)を目指して逃亡した。
逃亡の際、家宝の旗・楯無鎧を塩山(甲州市)の寺社に隠し、難を逃れさせた。

3月11日、徳川家康と穴山梅雪は織田信忠に面会し、今後についての相談を行った。
同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に捕捉された。
土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。
また、安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死した。
勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退した。

しかし、衆寡敵せず、勝頼、信勝父子・北条夫人は自害し、長坂光堅、土屋兄弟、秋山紀伊守らも殉死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。
いずれにしても『甲陽軍鑑』が記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。
これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門甲斐武田氏嫡流は滅亡した。

甲斐武田氏の終焉
信長は、勝頼自刃の時には国境すら越えておらず岩村城に滞在していた。
やがて、浪合に進出していた信長の元に勝頼・信勝父子の首が届いたのは3月14日のことであった。

3月16日には武田信豊が家臣の下曽根覚雲斎(信恒)に背かれて殺され、小山田信茂も「主君を裏切った」と言う理由で甲斐善光寺で処刑された。
依田信蕃も信長の命により処刑されそうになったが、武田氏の人材を求めていた徳川家康は彼を逃がした。
信蕃は本能寺の変後、空白地帯となった信濃・甲斐に家康を手引きし、その占領に貢献した。
他にも武川衆や後の徳川四奉行といった多くの人材が旧武田家臣で徳川氏に帰参していた成瀬正一 (戦国武将)を頼り、難を逃れている。

信玄の次男で盲目ゆえ仏門に入っていた海野信親(竜芳)は、息子の顕了武田信道を逃した後、自刃した。
信道の系統は大久保長安の業績に絡み、数奇な運命を辿りながらも後世にその血脈を伝えている。

論功行賞と武田残党の追討
3月21日に織田信長は諏訪に到着し、北条氏政の使者から戦勝祝いを受け取った。
3月23日と3月29日には参加諸将に対する論功行賞が発表された。

滝川一益:上野一国、小県郡・佐久郡
河尻秀隆:穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国、諏訪郡(穴山替地)
徳川家康:駿河一国
木曾義昌:本領(木曾谷)安堵、筑摩郡・安曇郡
森長可:高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡
毛利秀頼:伊那郡
穴山信君:本領(甲斐河内)安堵、嫡子・勝千代に武田氏の名跡を継がせ、武田氏当主とすることが認められた
森成利:金山城 (美濃国)(長可の旧居城)
団忠正:美濃国岩村城(秀隆の旧居城)
一益は「安土名物」と言われた茶道の「珠光小茄子」を所望していたとも言われ、「茶の湯の冥加が尽きてしまう」と嘆いていたとも言われている。
また関東管領、もしくはそれに準ずる権限の役に就いたとも言われている。
(『信長公記』では「関東八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」、『甫庵信長記』と『武家事記』では「関東管領」と呼称されている。
以上『信長軍の司令官 武将たちの出世競争』谷口克弘:著、中公新書より)。
北条氏政は「駿河でひとかどの働きをした」という評価を得たものの、これといった恩賞はなかった。

4月に入り織田信長は甲斐に向かい、その途中の台ヶ原(北杜市)で、生涯初めて富士山を見たとされる。
4月3日には、武田氏歴代の本拠である躑躅ヶ崎館の焼け跡に到着した。
一方、織田信忠勢は武田残党の追討を開始し、残党が逃げ込んだ恵林寺(甲州市)を包囲。
残党を引き渡すよう要求したが寺側は拒否した。
織田信忠は寺を焼き討ちし、寺の和尚である快川紹喜は「心頭滅却すれば火も自ら涼し…」という辞世を残し炎の中に消えた。

この他にも諏訪刑部・諏訪采女・段嶺某・長篠某といった者たちを農民を使って殺させ、その首が織田方へと献上された。
これに対して黄金を下したため、これを見た農民たちは武田方の名のあるものを探して殺し、その首を織田方に献上した。

逆に徳川家康は、残党狩りの命を無視し、先述のように武田の遺臣たちを密かに匿った。
これら人材は後の天正壬午の乱や軍制再編などで大いに貢献した。

4月10日に織田信長は甲府を出発し、東海道遊覧に向かった。
4月13日に江尻(静岡市清水区)、16日に浜松市へ到り、21日に安土城に凱旋した。

合戦の後
海津城に入った長可は近隣諸将を鎮撫し、上杉景勝の侵入を防ぎつつ、一方では上杉氏への攻勢を強めていた。
5月27日には柴田勝家らの北国勢の支援のために信越国境を越えて、春日山城を指呼の間に望む越後国の二本木(上越市)辺りまでに乱入。
その報を受けた上杉景勝は急遽、春日山城に引き返す必要に迫られることとなった。
しかし、本能寺の変で信長が討たれると、森長可は海津城を捨て本領地に逃げ帰った。
河尻秀隆は武田旧臣の一揆により落命することとなった。
そのため、武田遺領は一時的に政治的・軍事的空白状態となった。

滝川一益、北条氏政のその後の動きは神流川の戦いを、徳川家康、氏政、真田昌幸のその後の動きは天正壬午の乱を参照されたい。

[English Translation]