江華島事件 (Ganghwa Island incident)
江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に李氏朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。
日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。
日朝修好条規締結の契機となった。
背景
江戸時代後期に開国し、明治新政府が成立した日本では1868年(慶応4年)12月19日に新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を持つ使者を李氏朝鮮政府に送った。
しかし国書の中に「皇」「勅」の文字が入っており、冊封体制下では「皇」は中国の皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味していたので、朝鮮側は受け取りを拒否した。
その後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否した(書契問題)。
日本側は、先に清国と日清修好条規を締結する。
その後、日本と清国の間で領土問題(台湾出兵参照)が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示した。
ここで交渉は再開されるはずであったが、1872年(明治5年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。
さらに同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本公館と改名し外務省に直接管理させることにした。
これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だったこと、対馬藩は日本と朝鮮の間の交渉窓口の立場にあったからである。
この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行った。
かつてはこの時に「侮日掲示」を朝鮮側が行ったとされ、実際に明治日本側にそう報告されたが、近年の研究ではその報告書の記述が作為であったことが明らかとなっている。
しかし、いずれにしても日本側の感情を逆撫でする効果は十分にあり、「征韓論」が巻き起こるに至った。
経過
1872年9月対馬藩と交替するために来朝した花房義質が、春日丸に乗ってきたことから、日本を西欧勢同様、衛正斥邪の対象として、前述のように食糧の供給を停止した。
興宣大院君は、日本を次のように非難した。
「日本人は何故蒸気船で来て、洋服を着ているのか。」
「そのような行為は華夷秩序を乱す行為である。」
交渉が暗礁に乗り上げると、日本では朝鮮出兵を求める征韓論争など出兵問題が政治問題化するようになる。
征韓論争は明治6年の政変によって「延期」(「中止」ではない)と決まった。
しかし、その後の台湾出兵の発生と大院君失脚の報によって征韓論の勢いが弱まったために、明治政府は政府間交渉をして相手の状況をみることとした。
1875年、釜山広域市に於いて、東莱政府と森山茂との間で初めての政府間交渉が持たれた。
しかし宴饗の儀における日本大使の大礼服着用と、同大使が宴饗大庁門を通過することについて、東莱政府が承認しないなどのため紛糾した。
さらに朝鮮政府の中央では大院君の支持者が交渉中止を求めたために議論が紛糾し、東莱政府も確実な回答を日本側に伝えることが不可能となっていた。
結果的に、李氏朝鮮外交に翻弄された日本政府は、遂に痺れを切らし、小艦を釜山に派遣し東莱府館員を艦上に招待し発砲演習を見せつけることにより、局面打開を図った。
強硬派から(マシュー・ペリー同様嫌がらせのために)測量や航路研究のためとし朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が出ると、外務大輔の寺島宗則は太政大臣三条実美や右大臣岩倉具視の了承を得てこれを承認した。
海軍大輔川村純義に『雲揚 (軍艦)』『第二丁卯』の2隻の軍艦を派遣させる。
日本の軍艦は5月25日に無許可で釜山へ入港し、射撃演習などの威嚇行為を行った。
これに朝鮮側は抗議を行った。
これについて、従来の学説では1875年9月20日、日本の海軍少佐井上良馨が雲揚で航海していた。
飲料水の欠乏により淡水補給のため、自らボートに乗りこみ水を求めに陸に向かっていた。
日本国旗を掲げながら江華島の草芝鎮沖にさしかかった際に、島に設置された第3砲台から砲撃を受けた。
そのため、急ぎ雲楊へ帰艦し江華島砲台を破壊、永宗城島の要塞を占領した、とされてきた。
しかし近年新資料が発見され、この説は訂正を余儀なくされた。
もともと従来の説の根拠とされた雲揚の公式報告書(10月)は、日朝間の交戦期間をたった1日の間に起きたことのように記し(実際には3日間)、史料の信頼性に疑義が提出されていた。
しかし、事件から9日後に提出された公式報告書(9月)では、測量等のために朝鮮側の官僚と面会しようとして武装端艇でその陣営近くまで遡航し、さらに朝鮮側に断ることなく奥(ソウル方面)へと進もうとして砲台から砲撃されたと記されていた。
軍船が他国の河川を無断で遡航することは国際法違反であり、この場合さらに首都方面に行こうとしたことから、日本軍の行動は挑発だったと考えられている。
朝鮮からの砲撃の翌日、今度は日本側が艦砲射撃を行った。
そのうえで、海軍陸戦隊と海兵隊大日本帝国陸海軍を上陸させて第2砲台を放火した。
3日目には第1砲台も放火し、朝鮮側の35名を殺害している。
一方日本側の死傷者は雲揚の2名であった。
この事件が朝鮮政府に与えた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結された。