治承・寿永の乱 (Jisho/Juei Rebellion)
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。
後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平氏政権に対する反乱が起こる。
最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある。
(詳しくは「源平合戦」という呼称について)
平氏の隆盛
平安時代の末期、皇族・貴族内部の権力闘争が、保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった。
こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、武士の身分でありながら異例の栄達を遂げ(平清盛の実父が白河天皇だったためとする説もある)、仁安 (日本)2年(1167年)には太政大臣となる。
平氏一門は主要官位を占め、多数の知行国を得て、事実上の平氏政権が成立した。
鹿ケ谷の陰謀
平清盛一族(平氏)の隆盛は、旧来の勢力である他の貴族や皇族の権益を圧迫した。
武士身分出身である平氏への嫌悪も手伝って、貴族層を中心に平清盛政権への反発が密かに広まった。
これが具体化したものが、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀である。
陰謀は程なく発覚し、荷担した貴族や武士(多くは後白河法皇の近臣)が追放された。
この事件以降、平氏政権と後白河法皇の関係は急速に悪化した。
以仁王の挙兵
治承3年(1179年)11月に平清盛によるクーデターで後白河法皇が幽閉され、翌年2月、高倉天皇が言仁(ときひと)親王に譲位(安徳天皇)。
平氏政権は盤石の体制を築いていった。
治承4年(1180年)、皇位継承がほぼ絶望となった以仁王が、摂津源氏である源頼政の勧めに応じて、平氏追討・安徳天皇の廃位・新政権の樹立を計画した令旨を発して挙兵する。
しかし挙兵直前に企てが発覚したことと併せて期待していた令旨に呼応する挙兵勢力も現れなかった。
そして、平知盛・平重衡率いる平氏の大軍によって、同年5月に宇治の平等院で源頼政一族は敗死することになるが、この挙兵が後6年間にわたる内乱の契機となる。
関東武士団の挙兵
以仁王敗死の直後から、以仁王への同調者らによって令旨が各地に雌伏する河内源氏へと伝達された。
そのうちの1人である源頼朝は、6月末頃から河内源氏累代の家人とされる相模・伊豆・武蔵の武士団への呼びかけを始めて、8月17日には、伊豆在住の山木兼隆を襲撃して殺害する。
その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦して頼朝軍は惨敗する(石橋山の戦い)。
頼朝は、海路で安房国へ移動して相模三浦半島の豪族である三浦氏と合流した後、安房の在庁官人をはじめ房総半島の上総広常、千葉常胤、武蔵の足立遠元、畠山重忠らの諸豪族を傘下に加えながら急速に大勢力となっていく。
この勢力の大部分は、関東一帯に勢力をはる平氏系武士であり、在地領主でもあった。
当時、武士身分の領地所有は不安定であって頼朝軍への急速な武士の集結の背景には、武士による権利確立への強い希求があったのではないかと考えられている。
10月6日、頼朝は先祖のゆかりの地である相模国鎌倉へ入って本拠地とする。
これにより関東政権(後の鎌倉幕府)が樹立する。
また、この時までに関東政権は関東南部の実質的な支配権を獲得している。
富士川の戦い
同時期に、関東では甲斐源氏の武田信義も挙兵していた。
関東での状況を受けて平氏政権は平維盛、平忠度らが率いる追討軍を派遣した。
追討軍は東海道を下り、10月18日、駿河国黄瀬川で源頼朝、武田信義の関東連合軍と対峙する。
大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。
これに乗じて頼朝は上洛も検討するが、関東政権の大勢は東国経営の優先を望んだために鎌倉に帰還した。
その後、頼朝は巨大となった武士団を統率するため侍所を新設し、和田義盛を別当、梶原景時を所司に任じる。
関東経営
当時の関東の武士にとって、最優先事項であったのは関東内部の政治的安定である。
京都の中央政府への復帰を目指していた頼朝とは目的を異にしていたものと考えられている。
頼朝には、自らの支持勢力の権利を確保することが求められており、実際に頼朝は、志田義広、新田義重、佐竹氏や足利忠綱といった関東在住の非支持勢力を排除するか、もしくは、屈服させることに非常に尽力している。
地方武士団・源義仲の挙兵
関東以外でも反平氏勢力の動向は活発となっていった。
土佐国の源希義をはじめ、河内源氏のかつての本拠地だった河内国石川の源義基・源義兼父子、美濃国の土岐氏、近江国の佐々木氏、山本義経、紀伊国の湛増、伊予国の河野氏、肥後国の菊池氏らのほか、若狭国・越前国・加賀国の在庁官人など、多くの勢力による挙兵があった。
頼朝の挙兵と同時期の治承4年(1180年)9月、信濃国の源義仲(木曾義仲)が挙兵し1181年6月横田河原の戦いで勝利を収め、信濃から越後国を席巻した。
一時は上野国まで進んだが頼朝とは合流せずに北陸方面へ転進する。
その後、義仲を頼って来た以仁王の子(北陸宮)を推戴し、北陸一帯を平定した。
清盛の死
畿内においても寺社勢力を中心に反平氏勢力の動きが活発化していた。
それを封じるため、治承4年(1180年)12月、平重衡は東大寺・興福寺を焼き討ちにした(南都焼討)が、より一層、平氏への抵抗を強める結果となった。
治承5年(1181年)1月には、紀伊国の熊野三山勢力が挙兵して、伊勢国や志摩国で平氏側勢力と交戦するという動きもあった。
そうした中の同年閏2月に、平清盛が熱病で没して平氏政権は強力な指導者を失う。
しかし、直後の3月、平氏政権は再び東海道へ追討軍を派遣し、尾張墨俣川で関東政権軍と会戦して平氏軍が勝利を収めた(墨俣川の戦い)。
この結果、源氏軍による東海道方面の進撃は一時中断することとなる。
源義仲の上洛
源義仲の勢力を討つために、寿永2年(1183年)4月、平氏は平維盛、平通盛率いる大軍を派遣する。
平氏軍は越前、加賀の反乱勢力を破って5月には加賀・越中国境の倶利伽羅峠で義仲軍と対峙したが敗北する(倶利伽羅峠の戦い)。
義仲軍は、北陸宮を推戴しながら京都へ進軍して源行家、多田行綱(源行綱)、安田義定(源義定)らの多方面攻撃によって平氏の京都防衛線を破る。
そして7月、平宗盛を中心とする平氏一門は、安徳天皇や三種の神器を保持しながら都落ちして西国に逃れていく。
義仲軍は上洛を果たす。
当初、後白河上皇以下、貴族から庶民まで義仲の入京を歓迎したが、前年の養和の大飢饉の影響により義仲軍を養う食糧が不足して義仲軍は市中で略奪や狼藉を始めたために義仲の評判は落ちて、源頼朝の上洛を願う声が高まっていく。
同年9月、義仲軍は平氏追討のため山陽道へ出立して閏10月に義仲軍は備中水島で平重衡率いる平氏軍に敗れる(水島の戦い)。
これにより山陽道の平氏勢力が盛り返して義仲は連敗しながら京都に帰還する。
寿永二年十月宣旨
頼朝は、後白河法皇から上洛を催促されたが、鎌倉に留まって逆に法皇へ東海道・東山道・北陸道の国衙領・荘園をもとのように、国司・本所へ返還させる内容の宣旨発布を要請する。
その結果、法皇は義仲への配慮のため北陸道は除いたが、ほぼ上記の内容を認める寿永二年十月宣旨を頼朝へ発して東海道・東山道の荘園・国衙領を元の通り領家に従わせる権限(沙汰権)が頼朝に認められた。
頼朝は、既に実質的に東国を支配していたが、この宣旨発給は、頼朝が東国支配権を政府に公認され、その正統性を獲得したことを意味する。
義仲の滅亡
一方で、頼朝は、義仲に対する牽制として源範頼、源義経らに京都への進軍を命じて範頼・義経軍は11月初めには近江まで到着した。
その間、山陽道で敗北を重ねていた義仲は、京都への帰還直後に法皇との関係が決裂して味方の離反もあり孤立感を深めていった。
11月19日、義仲は後白河法皇を幽閉し、摂政近衛基通や院の近臣を更迭した後に松殿師家を摂政に任じるクーデターを行った(法住寺合戦)。
この結果、法皇と義仲の連携が成立して12月に法皇は義仲に頼朝追討の院宣を発した。
そして翌3年(1184年)正月、義仲は征夷大将軍(または征東大将軍)に任命された。
これは緊急時における政治大権を武士に付与することを意味する画期的な事件でもあった。
このような情勢下の1月20日、範頼軍と義経軍は、それぞれ京都近郊の勢多と宇治で待ち受ける義仲軍と交戦して勝利し(宇治川の戦い)、義経軍はそのまま入洛して法皇の身柄を確保した。
義仲は近江粟津で戦死した。
一ノ谷の戦い
義仲の滅亡に至るまでの間、平氏は勢力を立て直し寿永3年(1184年)正月には摂津福原まで戻っていた。
京都に駐留していた範頼・義経軍は、後白河上皇による寿永三年宣旨を獲得して京都から福原へ向かう。
範頼・義経軍は二手に分かれて平氏軍を急襲する。
激戦の末、平氏軍を海上へ敗走させた(一ノ谷の戦い)。
この戦いで平氏は多くの有能な武将を失い、後の戦いに大きな影響を及ぼした。
屋島の戦い
一ノ谷の戦いで敗れた平氏は讃岐屋島に陣を構えて内裏を置いた。
鎌倉政権軍は水軍を保有しておらず、源氏方は水軍編成のために、平氏方は兵力再建のために暫く休戦が続いた。
半年が経過した8月、範頼軍は平氏軍を背後からつくため山陽道を進軍したが、長く延びた戦線を平行盛によって分断された。
また、関門海峡も平知盛によって封鎖されて兵糧不足に陥った。
元暦2年(1185年)、範頼軍は九州へ渡ったが、思わしくない戦況に頼朝は義経へ平氏追討の命令を出した。
同年2月、義経は阿波勝浦へ上陸後、在地武士を味方に引き入れて陸路屋島の平氏本陣を攻め落した(屋島の戦い)。
壇ノ浦の戦い
屋島の戦いの後も、瀬戸内海を中心に小規模な戦闘が続いて両者とも一進一退を繰り返していた。
しかし、範頼軍に援軍が来るという情報を得た平氏軍は長門国へ撤退する戦略を選択する。
この結果、平氏軍は関東政権軍へ瀬戸内海の制海権を明け渡すこととなり、熊野別当湛増が率いる熊野水軍や,河野通信らの水軍を始めとする中国・四国の武士が続々と鎌倉政権へ味方した。
元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で平氏軍と関東政権軍の間で海戦が行われた(壇ノ浦の戦い)。
午前6時頃、平氏軍からの攻撃により戦いは始まった。
序盤は平氏が優勢であったが、正午過ぎから平氏が劣勢となっていく。
阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と平時子も三種の神器とともに入水した。
この戦いで平氏は滅亡した。
平氏政権の排除
乱の以前、平氏政権は主要官職を占めて多くの知行国を保有していた。
このために、平氏政権に権益を奪われた旧勢力(皇族、貴族、寺社)により平氏政権の排除が企図された。
最終的にはそれが成功したのだが、旧勢力は平氏政権が保有していた権益をすべて奪還することはできなかった。
武士政権の成立
旧勢力に平氏政権を排除する力(軍事力)はなく、その力を持っていたのは武士層であった。
当初、関東や北陸で勃興した反平氏勢力は、旧勢力の期待するところであって平氏政権を排除した後は、それまでの歴史の通りにいずれ中央政府に帰順するものと考えられていた。
しかし、これらの反平氏勢力は平氏追討を建前として掲げてはいたが、本音では自らの権利の確保、そして中央政府からの一定範囲での独立を真の目的としていた。
旧勢力にとっては、武士はあくまで家人であって対等の相手として扱う対象ではなかった。
そのため、旧勢力は東国武士たちの本音を読みとることができずに目先にある平氏打倒という目的のため、寿永二年十月宣旨の発給や源義仲の征夷大将軍への任命などといった、武士への大幅な権限委譲への道を開いてしまう。
そして、結果的として鎌倉幕府の成立がもたらされる。
草創期の鎌倉幕府は、東国の支配権を有するのみだったが、それは当時の幕府を構成する武士たちにとって十分満足できる結果だったはずである。
だが、創成期の武家政権と既存の朝廷勢力の権限を巡る駆け引きと緊張関係は引き続き存在し、その一応の解決をみるのは承久の乱以後の事である。
「源平合戦」という呼称について
治承・寿永の乱は、源平合戦(または「源平の戦い」)と呼ばれることも多い。
この争乱が以仁王の「平氏追討」の令旨に始まること、平氏政権から頼朝政権(鎌倉幕府)に交代したこと、民間レベルでは『平家物語』や『源平盛衰記』などの影響から清盛・宗盛ら平氏一門と頼朝・義経・義仲ら源氏一門の争いと受け取られてきたことなどが、この呼称を生んだといえる。
しかし、平氏政権に反旗を翻した勢力は源氏一族のみで構成されていたわけではなく、単純に源氏と平氏の争いとは言えない。
また、この争乱は、一族や家族、地域の共同体という横の絆と、主君と家臣という縦の絆の相克があり、命を懸けて戦った武士の全てが源氏や平氏という特定氏族に収斂されるわけでもない。
更に、平氏政権も頼朝政権も共に「院政の克服」という歴史的課題を背負い、その中から生じた政権であることなどから、歴史学上はこの呼称は適切とは言えず、年号を付して呼ぶ方が妥当であるとされる。
また、「源平合戦」の呼称は、氏族を強調するあまり、源氏と平氏の氏族内のねじれ関係をうまく説明できない。
確かに、甲斐源氏の武田信義や木曾の源義仲など、反平氏の掛け声のもとに挙兵をした源氏一族は多い。
しかし、源氏一族に属していても、平氏に縁(ゆかり)や義理があって同族に弓を引いた者もいた。
この現象は、平治の乱に既に見られる。
摂津源氏の源頼政は、河内源氏の源義朝とは完全に別行動を取っている。
源氏同士、平氏同士が争う現象は日本各地で見られた。
父系で見れば源氏だが、母系で見れば平氏、またはその逆という武将も少からずいて、去就に苦慮した者や、一族が2つに分かれて争った者もいる。
一族相克の物語は戦国時代 (日本)に多いが、この時代に既に始まっている。
武士は発生当初から血縁的要素よりも地縁的要素の強い集団であったが、この乱は日本を一層の地縁社会へと導くことになった。
源頼朝に従った平氏
北条時政、熊谷直実、畠山重忠、梶原景時、三浦義澄、千葉常胤、上総広常 など多数。
源頼朝に従わなかった源氏
新田義重、志田義広、佐竹秀義、源季貞 など。