渡来人 (Toraijin (Settlers))

渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、狭義には、中国大陸から南西諸島・朝鮮半島などを経由して、古代日本に渡来帰化した人々を指す。
渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。
また、そのルーツに関しても、黄河流域~山東半島、揚子江流域、満州~朝鮮半島など様々で、渡来の規模とともに今なお議論の対象となっている(最近の遺伝子研究ではおおむねにおいて渡来人は北東アジア起源が有力である)。
(水稲)稲作に始まり、後には仏教や寺院建築技術などを日本に持ち込み、古代日本における文化・政権形成に大きな役割を演じたと考えられている。

古くは縄文時代の終わり、約2500年前頃よりアジア大陸から、春秋時代やその後の戦国時代 (中国)にかけての混乱と戦災を避けて日本に渡ってきたと思われる。
考古学的調査により、彼らが最初に水稲を持ち込み、いわゆる弥生時代に繋がっていく。
(陸稲は約3500年前から存在。約6000年前からという説もある。)
その後古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者集団として朝鮮半島からも人々が渡来した。
なおこの時代の日本は、一方的に渡来人を受け入れその文化に染まっていったわけではない。
「倭・倭人関連の中国文献」には倭人が季節ごとに楽浪郡に使者を遣わしてくることや、倭国王帥升が倭奴国王印のちょうど50年後の107年に入貢の際に160人もの人(生口、奴隷のこと)を送ったことが倭・倭人関連の中国文献の記録に残っている。

また卑弥呼や台与(壹與)の時代にも生口を送っている記録があり、日本側からも人を送っていたことが見受けられる。

大和朝廷に仕えた渡来人としては、秦氏、東漢氏、西文氏が代表的であり、他に鞍部村主司馬達等(止)(大唐漢人、継体天皇・敏達天皇)、鞍部多須奈(用明天皇)、鞍作止利仏師(推古天皇)、高向玄理、新漢人旻、鑑真などがいる。

また飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来した。
中でも最後の百済王義慈王の王子の百済王善光は、持統天皇より百済王氏の氏姓を賜り、百済系氏族の長的な存在となった。

かつては帰化人という呼び名が学会の主流であったが、「帰化」には日本中心的なニュアンスがあるとして上田正昭らにより「渡来人」の呼称が提唱され、学界の主流となった。
しかし、「渡来」には単に渡ってやって来たという語義しかなく、倭国王(大王 (ヤマト王権))に帰属したという意味合いを持たないため、やはり「帰化」を用いた方が適切だとする関晃・平野邦雄らの見解もある。

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