熊野三山検校 (Kumano Sanzan Kengyo (the Overseer of the Three Kumano Shrines))
熊野三山検校(くまのさんざんけんぎょう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統轄にあたった役職で、11世紀始めに熊野別当の上に設置された。
概要
寛治4年(1090年)、熊野に参詣した白河天皇は、熊野詣の盛行に鑑みて、一地方霊山に過ぎなかった熊野三山を組織的に管理する必要を感じた。
そのため、先達をつとめた園城寺長吏の増誉を新設の熊野三山検校に補任し、在地の支配者である熊野別当の上に置いた。
同時に熊野別当の長快を法橋に叙階したことにより、熊野三山は中央の僧綱制に連なることとなった。
しかしながら、宗務は無論のこと、所領経営、治安維持、さらに神官・僧侶・山伏の管理といった統治実務にあたったのは熊野別当とそれを補佐する諸職であった。
それに対し、熊野三山検校の本務は太上天皇の熊野詣に際して先達を務めることであった。
そのため、その性格は多分に実権よりも名誉や権威に重きがおかれた役職であったが、熊野別当家の没落につれ、14世紀中頃以降、熊野に対する実権を掌握するようになっていった(歴史)。
歴史
熊野三山検校のうち、初代の増誉から6代の覚実までは、大峰山や葛城山、熊野において修行を積んだ修験者として知られ、三井長吏(園城寺の長吏)に補されている。
これらの人々に次ぐ7代の長厳は修験者ではあるが園城寺とは関係がないばかりか、真言宗系の仁和寺の出身であった。
そのためか、那智山検校を経てから補任されている。
長厳はまた、それまでの三山検校と異なって熊野三山におよぼした影響が強かったためか、藤原頼資の参詣記の建保4年(1216年)7月5日条には、熊野別当新宮別当家と田辺別当家の快実と頼資が長厳について批判めいた談話をしたと記されている。
また、4代覚讃の在任時期には、後白河天皇が京都に新熊野社(いまくまのしゃ、「今熊野社」とも)を法住寺 (京都市)の御所に勧請し(永暦元年〈1160年〉)、治承4年(1173年)には覚讃を新熊野検校に補任した。
5代三山検校の実慶が4代新熊野検校職に就いて(文治2〈1186年〉)以後は、新熊野検校職は、三山検校の兼職とされ、三山検校および京都における熊野の拠点となった。
熊野三山が別当家の指導のもと、上皇方について鎌倉幕府と戦った承久の乱後には、定豪という人物が就任している。
しかし、定豪は鶴岡八幡宮の別当であり、鎌倉幕府が熊野の直接把握を図った形跡がうかがわれる。
しかし、9代の良尊からは再び寺門派の修験者が代々この職に補任されるようになるが、依然としてその支配権は形式上のものにとどまっていた。
しかし、承久の乱以後に熊野別当家が衰退し、熊野地方の諸勢力への統制力を失った。
そのため、14世紀中頃以降の熊野三山の統治組織には大きな変化が生じ始め、三山検校が熊野を直接把握を試みるようになる。
例えば15世紀半ばには、三山検校が那智山の社僧に対し、所領を安堵する文書2通が15代道昭の名で発されており、熊野を掌握する早い時期の試みがなされている。
また、おおよそ16代の覚助法親王ないしは20代道意以降にかけての時期には、足利将軍家との親近関係も手伝って、三山検校職が聖護院門跡の重代職となった。
足利尊氏は三山検校の意向を受けて在地で実務に当たる熊野三山奉行を新設することで、これを実質の面で後押しした。
尊氏は、禅林寺 (京都市)の熊野若王子社を再興し、その別当寺院として乗々院(じょうじょういん)新設した。
乗々院(じょうじょういん)の別当良海を三山奉行に補任しただけでなく荘園の寄進により財政面でも乗々院を支えた。
以後、歴代の足利将軍は、乗々院の所領と権益を手厚く保護し、聖護院が三山検校を重代職化してからは、三山奉行を重代職とするだけでなく聖護院の筆頭院家の地位をも獲得した。
加えて、室町時代から戦国時代 (日本)にかけて熊野山領の荘園の状況の変化は、熊野三山検校やその下におかれた三山奉行の熊野三山に対する影響力を増大させる方向に働いた。
この時期、在地領主の支配が及ぶようになった結果、各荘園からの熊野への年貢は一部の上分米をおさめるのみになり、それも滞りがちとなった。
熊野からの働きかけにより事態を解決したこともあるものの、多くは守護や在地土豪の仲介を求めていた。
熊野三山検校や三山奉行はしばしば仲介の依頼を幕府にとりつぐことがあり、これにより熊野への発言権は増していった。
このようにして、当初、名誉職に過ぎなかった熊野三山検校は、14世紀半ば以降の熊野別当家の退勢を背景に、足利将軍家権力の支持をもとに権威と実権を拡大させていったのである。
その後、応仁の乱に際して聖護院と若王子社は兵火にかかって焼失したが、1545年(天文 (元号)14年)および1564年(永禄7年)の令旨に見られるように、熊野三山検校職それ自体は存続した。
また、1575年(天正3年)に織田信長は山城国西院内の30石を寄進し、豊臣秀吉は1585年(天正13年)に同じく山城国岩倉内長谷の75石、1591年(天正19年)には山城国吉祥院内の8斗8升を寄進した。
秀吉から寄進された長谷と吉祥院は江戸時代に入ってからも朱印地・黒印地として安堵された。
熊野三山検校は明治元年(1868年)まで存続したが、最後の検校であった宮入道信仁親王が還俗し、明治3年(1870年)に北白川宮を創設して北白川宮智成親王を称したことをもって終焉を迎えた。