牙符制 (Gafusei (ivory tally system))
牙符制(がふせい)とは、外交使節の審査・認証を行なう制度(査証制度)の一つ。
室町時代において日本が朝鮮王朝と行った貿易(日朝貿易)で実施された。
牙符制は日明貿易における勘合符制と同様、一つの符を二つに裂いた割符を以って使節の査証を行なう制度であり、勘合符の代わりに牙符あるいは象牙符とも呼ばれる通信符が使用された。
概要
牙符とは文字を刻んだ象牙を半割りにした割符であり、円周は四寸五分、片面に「朝鮮通信」と篆書体(てんしょ)で刻まれ、反対面には発給年次「成化十年甲午」と彫られていた。
朝鮮王朝により10枚製作され、それぞれ一から十まで通し番号が入っており、左符を朝鮮側、右符を日本側が保管した。
日本から通交する使節はいずれかの牙符を携行し、朝鮮側の保管する片割れと突き合わせることで査証を行った。
後に一度改給され、新符では日本側が左符を、朝鮮側が右符を保管することになる。
なお牙符は現存しておらず、文献上でのみ、その存在が確認されている。
牙符制の対象とされたのは日本国王使と王城大臣使である。
中世日朝貿易は制限貿易であり、朝鮮王朝から図書と呼ばれる銅製印章を受けた者のみ通交が許されていた。
通交を行う者は図書を押印した書契を携行し、その印影を持って査証を行っていた。
しかし室町幕府は朝鮮王朝と同格の存在であり、許可を受けなければならない立場にはなく、自由な通交が認められていた。
王城大臣使も日本国王使の例に倣い、同様の扱いであった。
しかしそのため、これらの使節には図書という査証の手段が存在しなかった。
牙符制は日本国王使・王城大臣使に査証の手段を与えるものであった。
牙符制は室町幕府8代征夷大将軍足利義政により始まった。
室町幕府は勘合符を掌握することで日明貿易を統制下に置き、幕府の財源としていた。
義政は日朝貿易も同様に財源化することを意図し、朝鮮王朝に牙符制の導入を申し入れる。
この時期、偽の王城大臣使が朝鮮に通交しており、義政の申し入れは偽使抑制を願う朝鮮王朝の思惑と一致し、牙符制が導入されることになる。
1474年、朝鮮王朝から室町幕府へ牙符発給。
1482年、牙符を携行した最初の日本国王使が通交することで発効。
1504年、改給。
牙符制は文禄・慶長の役まで続いた。
変遷
中世日朝貿易は制限貿易であり、貿易へ新規参入もしくは拡大を図る者にとって、偽使は一つの有力な選択肢であった。
牙符制が導入されるまで日本国王使・王城大臣使に対する査証の手段は存在せず、1450年代から貿易利権を目当てに王城大臣使を名乗る偽使が出現し、1470年代には偽使により「朝鮮遣使ブーム」と呼ばれる偽王城大臣使の大量通交が発生する。
偽の王城大臣使を派遣していたのは、対馬の宗氏と博多商人の連合体であったとされている。
これら偽使派遣勢力は、図書に関しては印影を盗み木印を製作するなど高度な偽造技術を持っていたが、牙符の偽造は困難であった。
偽使派遣勢力は牙符制の発効を恐れ、1474年の牙符発給を受けた日本国王使を対馬で一時拘束する、あるいは1480年に偽王城大臣使を朝鮮に派遣し、牙符が散逸したとする撹乱情報を伝えるなど、妨害を試みている。
しかし、1482年に牙符を所持した日本国王使が朝鮮に訪れることで牙符制が発効し、それを期に王城大臣使の通交は途絶え、偽使勢力は封じ込められている。
義政は日朝貿易権の統制を重要視しており、牙符を極秘裡に私蔵し在京有力守護に対しても王城大臣使の派遣を許さなかった。
しかし義政の死後、明応の政変により将軍家が二つに割れて争う中、牙符は有力守護を味方に付ける道具として切り売りされて流出し、1501年には大内氏の手による偽日本国王使が通交している。
明応の政変において足利義材から将軍職を奪った足利義澄・細川政元は、義材を擁する大内義興所有の牙符を無効化しようと図り、1504年、朝鮮王朝に牙符の改給を提案する。
この時、義澄の手元には2・3枚の牙符しか残されてなかったと見られている。
朝鮮王朝は義澄の提案を受け入れ新符10枚が発給され、これにより散逸した旧符は無効となる。
しかし、牙符改給は義澄・政元による日朝貿易の再統制には繋がらなかった。
義澄・政元は大内義興に対抗するため大友氏の協力を必要としており、少なくとも2枚の牙符が大友氏に引き渡されたと見られている。
またその後、時期・経路が不明ながら大内氏も第四牙符を入手している。
この第四牙符は大内氏滅亡後、毛利氏に受け継がれる。
それ以外に、第三牙符の流出も確認されている。
これらの大内氏・大友氏・毛利氏の所有する牙符は宗氏に貸し出され、偽日本国王使・偽王城大臣使の通交に使用された。
1540年頃には牙符は恒常的に対馬に置かれていたものと考えられている。
結果として、1504年以降朝鮮に通交した日本国王使・王城大臣使の大半は偽使であると見られている。
牙符制は導入当初こそ通交統制に効果を発揮したが、明応の政変を期に牙符が流出し効力を失う。
結局、日朝貿易を室町幕府の統制下に置こうという義政の目論見は無に帰すが、牙符制そのものは文禄・慶長の役まで続けられる。