班田収授法 (Handen Shuju-no-ho)

班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)とは、古代日本において施行された農地(田)の支給・収容に関する法体系である。
班田収授法による制度を班田収授制または班田制という。
班田収授制は、日本の律令制の根幹制度の一つであり、律令が整備された飛鳥時代後期から平安時代前期にかけて行われた。

古代の戸籍制度・計帳に基づいて、政府から受田資格を得た貴族や人民へ田が班給された。
死亡者の田は政府へ収公された。
こうして班給された田は課税対象であり、その収穫から租が徴収された。
この制度は、当時の中国で行われていた均田制の影響のもとに施行されたと考えられている。

班田収授の発足

日本書紀によれば、646年正月の大化の改新の詔において「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とある。
これが班田収授法の初見である。
しかし、この改新の詔に関する記述には多くの疑義が出されており、このとき班田収授法が施行されたと即断することはできない。
班田収授法の発足は、初めて戸籍が作成された670年、若しくは飛鳥浄御原令が制定された689年以降であろうと考えられている。

律令下での班田収授

班田収授法の本格的な成立は、701年の大宝律令制定による。
班田収授制は、律令制の根幹をなす最重要の制度であった。
現存する養老律令によると、班田収授の手続きは次のとおりだったことが判っている。

原則
まず、班田収授は6年に1度行われた。
これを六年一班という。
同様に戸籍も同様に6年に1度作成された。
戸籍作成に併せて班田収授も実施されていた。
戸籍において、新たに受田資格を得た者に対して田が班給されるとともに、死亡者の田は収公された。

手続き
戸籍作成の翌年から班田収授の手続きが開始する。
戸籍作成翌年の10月1日から11月1日までの間に、京又は国府の官司が帳簿を作成し、前回との異動状況を校勘する。
そして、翌1月30日までに太政官へ申請した。
2月30日までに許可され、班田収授が実施された。

対象
律令(田令)において、口分田・位田・職分田・功田・賜田が班田収授の対象とされた。
例外は寺田・神田のみとされた。

班給面積

口分田(1段360歩)

良民男子- 2段

良民女子- 1段120歩(男子の2/3)

家人・私奴婢- 良民男女の1/3(男子240歩、女子160歩)

位田

正一位- 80町

従一位- 74町
正二位- 60町
従二位- 54町
正三位- 40町
従三位- 34町

正四位- 24町

従四位- 20町
正五位- 12町
従五位- 8町

職分田

太政大臣- 40町

左右大臣- 30町
大納言- 20町

大宰帥- 20町

大宰大弐- 6町
大宰少弍- 4町
以下大監から史生まで2町~1町を支給

大国守- 2町6段

中国守・大国介- 2町2段
中国守・上国介- 2町
下国守・大上国掾- 1町6段
中国掾・大上国目- 1町2段
中下国目・史生- 1町

郡司大領- 6町

少領- 4町
主政・主帳- 2町

功田・賜田

功田・賜田は支給面積の基準はなかった。

衰退と終焉

班田収授は、奈良時代最末期になると、浮浪・逃亡する百姓の増加や、そうした百姓を荘園が受け入れたことを背景として、次第に弛緩し始めた。
そのため、桓武天皇は6年1班を12年1班に改め、班田収授の維持を図った。
しかし、田地の不足、班田手続きの煩雑さ、偽籍の増加等により、平安時代初期には班田収授が実施されなくなった。
902年(延喜2年)、醍醐天皇により班田が行われたが、実質的にこれが最後の班田となった。
班田収授は唐の均田制を参考にしたものである。
その手本となった唐が780年に両税法を施行し既に均田制が崩壊している。
よって、このような制度を当時の日本が導入する事自体に無理があったと言える。

[English Translation]