短陌 (Tanhaku)
短陌(たんはく、省陌(しょうはく)とも)は、近代以前の東アジア地域で行われてきた商慣習で、100枚以下の一定枚数によって構成された銅銭の束を銅銭100枚と同一の価値として扱う事。
唐代以後、中国王朝が発行する銅銭は高い信用価値をもって通用されて日本をはじめとする周辺諸国においても自国通貨に代わって用いられるようになった。
だが中国の銅の生産能力は決して高いとは言えない上に、経済の急速な発展から銅銭の需要が銅銭発行量を上回るペースで高まったために、結果的には市中に流通する銅銭が慢性的に不足すると言う銭荒現象が生じるようになった。
そのため、銅銭の実際の価値が公定の価格以上に上昇して経済的に大きな影響を与えるようになった。
そのため、唐代末期以後に銅銭の穴に紐をとおして纏めた束一差しに一定枚数があればそれをもって100枚と見なすという短陌の慣習が形成されるようになった。
これは、実質上の通貨の切り上げになると同時に銅銭を多く取り扱う大商人に有利な制度として定着した。
五代十国の一つである後漢_(五代)の宰相であった王章 (五代)は、77枚をもって銅銭100枚として見なす事を公的に許すようになり、宋 (王朝)以後の王朝でも採用された。
民間では更に少ない枚数での短陌レートが設けられていた。
これに対して、短陌を用いずに銅銭100枚をもって支払うことを中国では「足銭」、日本では「長銭」・「調陌」と呼ぶ。
短陌は銅銭不足であった当時の経済状況に合わせた慣習であり、銅銭の輸送の不便さを軽減する上では歓迎された。
だが、銅銭を多く保有して多額の取引を行う大商人には実質上の資産価値の増大に繋がる一方、短陌を外してしまうと銅銭本来の公定価値に戻ってしまう(宋代の公定価値を元にすると、短陌を外した銅銭を全て合わせても77枚分の価値しか有しないために、23枚分の損となる)ために、日常生活において小額の取引がほとんどである庶民にとっては大変不利な制度でもあった。
日本においては、室町時代に銅銭97枚をもって100枚とみなす商慣習があったと言われている。
江戸時代に銅銭96枚(=96文)の束をもって銭100文と見なした慣習も短陌の一つと見なされる。
その慣習は戦国時代 (日本)初期の永正2年(1505年)の室町幕府による撰銭令の中において、(銅銭96枚を100文とすることを前提として)100文の1/3を32文として換算する規定が見られ、こうした慣行を九六銭(くろくせん)とも呼んだ。