禁闕の変 (Kinketsu Incident)
禁闕の変(きんけつのへん)は、室町時代の1443年(嘉吉3年)9月に京都で起こった後花園天皇内裏の襲撃事件である。
吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れた。
「禁闕」とは、皇居(京都御所)の内裏の意味。
「嘉吉の変」とも呼ばれるが、嘉吉元年(1441年)に起こった6代将軍足利義教の謀殺事件(嘉吉の乱)と混同されることから、「禁闕の変」の名称が用いられる。
経過
南北朝時代 (日本)の1336年に、後醍醐天皇により開かれた南朝は、3代将軍足利義満時代の1392年に明徳の和談が行われて名目上は解消された。
だが、南朝の後胤を擁する後南朝勢力は室町時代を通じて出現し、反幕府勢力とも関係して活動する。
その一方で、かつての持明院統側では後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられるという事態が起こっていた。
さらに室町幕府では嘉吉の乱による混乱もあり、43年7月に将軍足利義勝が死去、足利義政が8代将軍となるが、就任までは間があり、事件はその最中に起こっている。
後花園天皇の実父である後崇光院が著した『看聞日記』をはじめとする同時代の日記類によれば、事件は9月24日に起こり、首謀者は南朝の後亀山天皇あるいはその弟の子孫とされる金蔵主、通蔵主の兄弟、鎌倉時代の後鳥羽上皇の後胤を称する源尊秀、日野氏傍流の日野有光、日野資光ら。
一味は内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣の近衛忠嗣の邸に避難。
幕兵との戦闘も行われている。
一味は三種の神器の剣と神爾を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もる。
朝廷から追討令が出ると、数日のうちに幕府軍や協力を拒んだ山徒により鎮圧され、一味のうち金蔵主や日野有光らは討たれ、一部は逮捕されて処刑・流罪、また行方不明となったものもいた。
奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神爾は持ち去られたままであり、15年後の1457年(長禄元年)には、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が長禄の変での奮闘により神爾を奪い返し、翌年には神爾は北朝の手に戻っている。
事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた記録も残っている。