立志社の獄 (Risshisha-no-Goku (Imprisonment of the Risshisha [Self-help Society]))
立志社の獄(りっししゃのごく)とは、1877年の西南戦争に乗じて立志社 (政治団体)の林有造や大江卓が元老院議官陸奥宗光らと共謀して高知県にて挙兵を企てたとされる事件。
同年8月に事件が発覚して林をはじめとする首謀者や片岡健吉ら高知在住の幹部が逮捕され、翌年8月に大審院において有罪判決が下った。
この事件については立志社の指導者である板垣退助・後藤象二郎らは無関係で片岡も林ら過激な首謀者の巻き添えとなったとする見解が『自由党史』以来の通説である。
これに対して同書は板垣監修の書であり、仮に板垣自身が関与したとしてもその事実を記載をするとは考えにくいとする史料批判がある。
林や大江の回想録も板垣と協議した事実を記している。
次のような反論もある。
後藤象二郎と陸奥宗光が戦争中に板垣あるいは木戸孝允を司令官とした旧土佐藩を中心とした西郷隆盛討伐の義勇軍を持ちかけて一旦は明治政府の方針とされた(4月15日に中止)。
これを挙兵の大義名分作りのための計画とみなして板垣や後藤も挙兵計画に関与していたとする反論である。
いずれにしても、自由民権派による「第2の西南戦争」になる事を危惧した明治政府側は板垣・後藤に対する責任追及を避けて、「一部過激派」の暴走と規定することで事態の収拾を図ったとは言える。