立正安国論 (Rissho Ankoku-ron (Treatise for Spreading Peace Throughout the Country by Establishing the True Teaching))
立正安国論(りっしょうあんこくろん)は、日蓮宗を開いた日蓮が文応元年(1260年)に得宗(元執権)北条時頼に提出するために撰述した文章。
日蓮本人が文永6年(1269年)に筆写したとされる本が法華経寺にあり(国宝)、他にも直弟子などによる写本が多数伝わる。
更に真言密教批判などを加えた増補本(「広本」)が本圀寺にある。
正嘉年間以来、地震・暴風雨・飢饉・疫病などの災害が相次いだ。
当時鎌倉にいた日蓮は立正安国論撰述の前年『守護国家論』を撰述したのに続いて、宗教家としての憂慮から政治・宗教のあるべき姿を当時鎌倉幕府の事実上の最高指導者である北条時頼に提示するために駿河国実相寺 (富士市)に籠って執筆した。
後にこの書を持参して実際に時頼に提出している。
この中で日蓮は災害の原因を人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法(邪悪な教え)を信じているからであるとして対立宗派を非難し、法華経だけではなく鎮護国家の聖典とされた金光明最勝王経なども引用しながら、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱、外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)、国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張したのである。
具体的には、当時の漁民に継承された蝦夷の哲学と法華経に秘められた数の奥義が一致することから、自然界の妙法を説いた法華経の正当性を説いたもの。
なお、蝦夷の哲学とは、女性の大虫の周期が日の自転周期に一致する事から、その胎から生まれたなん人にも宇宙の理が備わり、日の恩恵を受けているという考え方。
この内容はたちまち内外に伝わり、その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。
ところが時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇の到来に至り、続いて国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄北条時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇の対立の様相を見せ始めるなど、内乱の兆しを思わせる事件が発生した。
これを見た日蓮とその信者は立正安国論をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。
日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、以後も2回、合わせて3回の「国家諫暁」(権力者への助言)を行うことになる。
この中で日蓮は、“くに”という字を“國”“囻”“国”の3字を使い分けた。
國はLand、囻はNation、国はStateの義であろうとされている。